共通試験明けの、月曜日。
つまり、自己採点の日。
自己採点が終わったら、解散だった。
――私は、だれよりも早く、教室から、出たかった。
「そんなに急いで、どうするの?」
親友の平原が呼び止める。
呼び止める平原が無邪気に見えて、
その無邪気さが、
いまは――受け容(い)れられない。
「ねぇ、甲斐田ったら、」
「触(さわ)んないで!!」
私の絶叫で、
教室がシーン、と静まり返る。
困惑する平原の身体(からだ)が離れていく。
ひたすら下を向き、歩いて教室から出る私。
廊下に出たとたんに――駆け足になる。
× × ×
平原を拒絶した痛みが、チクチクチクチクと、こころのなかに残っている。
痛い。
とくに精神的に、痛い。
――なんで。
なんでここで、神様は私を、見放すんだろう。
残酷。
試験が終わった直後の感触は――良かった。
思ったよりすらすら解けたって、安心した気持ちになっていた。
それが良くなかった。
安心じゃなく、慢心だった。
『あまりできなかった』って不安になるほうが、実際は点数は取れているもの。
その反対のパターンだった。
結果が、容赦なく、私の甘い期待を裏切った。
これじゃあ……、
間違いなく、足切りされちゃうよ。
× × ×
ところで、ここ、どこだっけ?
…なんちゃって。
3年間も通っていて、校内の地理がわからないはずがない。
だけど、一瞬『どこだっけ?』って自問するぐらい、私の感覚は狂ってきている。
追い詰められてる証拠だ。
落ち着きたくても、落ち着けないけど、
眼の前にある建物が、部室棟であることぐらいは――認識できてる。
たしか、応援部の部室も、この建物じゃなかったっけ。
応援部といえば、篠崎くん――。
あれ、
あれっ、なんで私、篠崎くんを連想したかな。
先週の金曜に、自習スペースで出くわしたからか。
――篠崎くん。
彼は、たぶん、楽勝で共通試験を突破するんだろう。
自己採点が終わって、いまごろ鼻高々になっているかもしれない。
「番長」で、バンカラを気取ってて、いつも態度が大きくて、
時に、頭がカラッポに見えることすらあるのに、
ほかの生徒のだれよりも、学業成績優秀な、そんな篠崎くん。
たとえば、
いま、応援部部室から出てきて、私の眼の前に篠崎くんが姿を現したなら。
なんにも知らない彼は、最高レベルの無神経さで、『甲斐田、自己採点は上々か?』なんて、そんなことばを言い放ってくるかもしれない。
仮に――そんなシチュエーションを、強いられたのなら。
悔しさ、恥ずかしさ、嫉妬……。そういった感情がごちゃまぜになって、私の胸を苦しくすることだろう。
その苦しさが、怒りに転化して、カッとなって、やぶれかぶれに、彼を通学カバンで殴打する。
……そんなビジョンが、衝動的に浮かんでくるぐらい、私に余裕は残っていない。
男の子をカバンで殴って、どうするの。
暴力的な妄想もいい加減にしてよ、私。
親友を拒絶しただけじゃ気が済まず、腐れ縁みたいな男子に八つ当たり?
勝手に篠崎くんを仮想敵にして、脳内でボコボコにする。
そんなヤバい妄想が膨(ふく)らむのを、止められない。
止められないぐらい……私はおかしくなってきている。
現実の世界と想像の世界の境界線が、ぐらりぐらり揺らぐ。
原因は、自己採点。
理想の自己採点結果と、現実の自己採点結果の、ギャップが……。
「お父さんとお母さんに、なんて言おう」
ひとりごと、言っちゃった。
せっかく放送部でひたすら鍛えた声なのに。
声、歪(ゆが)んでる。
どうしようもなく、自分の声、歪んでる。
どんどん破壊されていく私は、フラフラと部室棟の近辺を彷徨(さまよ)い歩き始めた。
これからの不安が、ひっきりなしに絶望感に上乗せされる。
築きあげてきたものが壊される音が、ガンガン鼓膜(こまく)に鳴り響く。
ふと、
うずくまるようにして、壁際に腰を下ろしている、
ひとりの男子が、
眼に留(と)まった。
腕まくりされた学ラン。
そして、学生帽。
世界でひとりだけの、バンカラ気取りの、18歳の男の子。
どこからどう見ても、篠崎くん。
ありえないことに、
篠崎くんが――極度に、うなだれている。
夢でも見てるのかと、最初は思った。
自分の腕をつねるっていう、原始的な方法で、確かめた。
そしたら、つねった腕が……痛かった。
「……どうしたの?」
思わず、漏れ出す声。
気づかわなきゃ、と思う気持ちが、芽生えていた。
「甲斐田か」
篠崎くんが、少しだけ、顔を上げてくれる。
張りのない、声。
こんな、か弱い話しかたも、できたんだ、って――そう思うぐらいに。
「なぜ、こんなところに来たのだ」
元気がない彼が、私に問う。
私は、こう答える。
「たぶん、あなたと同じ理由で……ここまで、やって来てしまったんだと思う」
察知した彼の眼が大きくなる。
「荒れてたんだよ、ひとしきり」
でも。
「でも、荒れてたのは、私ひとりじゃなかったんだね――篠崎くん」
つらそうな口元が開かれて、気落ちした声を振り絞るように、
「やめてくれ、甲斐田……傷の舐め合いになる」
そうだね。
たしかに、そうだね。
でも――。
「……思ってるでしょ、『これからどうしていけばいいのだ?』って。
私も思ってる、まったく同じことを」
彼は苦々しい顔で、
「それがまさに、傷の舐め合いなのだと――」
「わかってるよ」
「わかっているのなら――軽々しく、傷に触れないでくれ」
「――傷に塩をつけたら、よりいっそう、痛くなる」
「なにを言い出すのだ」
「だったら――傷に砂糖をつけたら、どうなるのかな?」
「――知るものか」
苦笑いの私は、
「でしょっ?」
そして、
「私たち、そういうことも知らなかったから、肝心なところでしくじっちゃうのかな」
と、無理やり、試験の失敗に結びつけてみる。
「篠崎くん。
傷に砂糖をまぶすとどうなるのかは、べつとして――」
私たちにいま必要なのは、なにかといえば。
「――糖分は、摂(と)ろうよ」
虚(きょ)を突かれたように、
「糖分……」
と、篠崎くんが、つぶやきのように言う。
「甘いもの好きでしょ? 甘党なんでしょ? とびっきり砂糖の入った飲み物、自販機で買ってきてあげる。おごってあげるよ」
「……面目がつぶれる」
「おごられるのが?」
「そうだ」
「じゃああとで返して」
「約束する」
「義理堅いのね」
「たまには、な」
いまの篠崎くんの顔、
素顔が出てるような気がして、微笑ましい。
「なにが飲みたい?」
「ミルクコーヒー。がぶがぶ飲める、ミルクコーヒー」
「うわ、私がいちばん敬遠する飲み物だ」
「悪いかっ」
突っぱねる顔も、
素顔。
「悪いなんて、思ってないよ」
できる限り優しく、
彼の素顔を、くすぐってみる。
「もっと甘党に自信持ちなさいよ。
自分の気持ちに、ウソつくなんて――篠崎くんじゃないと思う」