「成人の日だね、お兄ちゃん」
「ああそうだな、あすか」
「お兄ちゃんも、もうちょっとしたらハタチかー」
「感慨深げだな」
「べつに?」
コンニャロッ。
「お兄ちゃんには、ふだんからもっとオトナでいてほしいなー」
「……具体的には?」
「いろいろガサツじゃん」
「ちっとも具体的じゃないぞ」
「じゃあ具体例言ってあげる」
そうか、言ってくれるか、具体例。
おれはうれしくないけどな。
「今朝、洗面所の水、出しっぱなしだったでしょ」
「え、そうだった?」
「気づかなかったの!?」
「気づかなかったから……出しっぱなしにしてたんだろ」
「言い訳になってないよ、お兄ちゃん。そーゆーところがガサツなんだよ」
「……水に流してくれよ、水だけに」
「寒いこと言わないでよっ、日本全国のみなさんがどんだけ寒波(かんぱ)に苦しんでると思ってるの!?」
「おれのギャグで――沖縄にも雪が降る、ってか」
「そういうひたすら寒いことしか言えないのも改善してよね」
× × ×
「いろいろ自覚してほしいな、できればハタチになるまでに」と言って妹は去っていった。
おれの妹は24時間容赦ない。
自覚――か。
とりあえず、洗面所で水を出すときは、気をつけよう。
部屋に戻った。
なにもやることが思い浮かばない。
ベッドに寝っ転がって、やることを考える。
でも、思いつかない。
なにか、やるべきことはあるだろうに。
読書をすることにした。
はじめは机に向かって読んでいた。
集中力が続かず、ふたたびベッドに舞い戻り、仰向けで読もうとした。
分厚いうえに難しい本で、なかなか読み進められない。
文章の意味がわからないと、自分の読解力のなさを呪ってしまう。
理解できないのは、おれのせいだ……そう思い始め、次第に読書がストレスになっていく。
× × ×
ふとした瞬間に、過去が現実になって、おれの意識を襲ってくることがある。
イヤな思い出ほど、脳に定着する――だれだって、そうだけど。
イライラした弾(はず)みで、イヤな思い出が剥(む)き出しになったりする。
ひとたび、過去がぶり返してくると、腫(は)れ物が炎症を起こすみたいに、マイナスの感情が全身に行き渡っていく。
――いじめられっ子だったもんな、おれ。
主に、中学時代の、苦い思い出。
復讐しても、消えない傷(いた)み。
おれは――中学時代のいじめっ子の同級生を、最終的に半殺しにしたことがある。
物騒だけど、これは事実だ。
半殺しが不適当ならば、再起不能、と言い換えてもいい。
いじめっ子に逆襲したら、その復讐で、夢の中に化けて出てきましたよ……というお話。
復讐の連鎖、ってやつだ。
あのいじめっ子は、いまどうやって生きてるんだろう。
……いつの間にか、こんなヤバい思いに、感情が支配されてしまっていた。
もう読書どころではなかった。
負の感情が全身を包み、ベッドから起き上がるのさえ億劫(おっくう)になる。
次から次へと悪い考えが浮かんでくる。
せき止めようと思ってもドバドバ溢(あふ)れて止まらない。
いじめられた過去だけではなく、もっとつらくて悲しい過去がやってきて、あたまのなかでグルグル回り始める。
おかしい。
発作みたいだ。
1年に一度……がきょうだったのか。
だれか助けてくれ。
限界だ。
苦しさが、頂点に達しようとしていた瞬間――、
部屋をノックする音が聞こえた。
苦しかったから、だれがドアを叩いているのか、わからなかった。
苦しかったけど、おれは死力(しりょく)を振り絞って、ドアにたどり着いた。
……愛だった。
ドアを開くと、愛がすぐそばに、立っている。
「わたしアツマくんの部屋で勉強しようと思ったんだけど――」
なにも知らない愛のことばが、精神(こころ)に沁(し)み入(い)ってくる。
「――どうしたの? 泣きそうな顔で」
「愛」
助けてくれ、なんて言わない。
おれがいま、言うのは、
「おまえがいてくれて……うれしいよ」
愛は呑(の)み込みが早い。
だから、すぐに、覚(さと)った顔になってくれる。
「なにかあったのね」
「あった。ダメになりそうになった、おれ。死ぬかと思った」
「大げさな」
「本を読んでたら……イライラがやってきて……イライラついでに、よくなかったことをどんどん思い出して、過去のイヤな記憶で頭がいっぱいになって、完全におかしくなってた……発作みたいだった」
「1年に一度くらい、そうなっちゃうことあるよね、アツマくんって」
よくわかってんじゃねぇか。
ほんとうに……おれのことを、よく知ってくれている。
「ああ。その1年に一度が、よりにもよって成人の日だったみたいだ」
「――わたしが来たからには、もうだいじょうぶよ」
そのことばで、涙が出るほど安心する。
「いろいろあるんだよね、アツマくんにも。ふだんはわたしたちのほうが助けられてるんだけど、こうやってSOS出したくなることが、あなたにだってある」
「情けねぇ」
「そんなこと言わないの」
「めんどくさくて、ごめんな……」
「お互いさまでしょ? ふだんわたしのこと『性格ブス』って言ってるのは、どこのだれよ」
「おまえは……性格ブスでもなんでもねぇよ」
そう言うと、
「アツマくんが、アツマくんじゃないみたい」
「爆笑しながら言うんじゃない」
「だって。」
「ったく…」
「――少し元気になったみたいね」
とびきりの美人の、優しい笑顔。
凍(こご)えそうだった精神(こころ)に、温度が戻ってくる。
× × ×
「わたしが『洗面所の水出しっぱなし』とか言ったのが、いけなかったのかな」
リビングのソファ。
右隣に座るあすかが、反省気味に言う。
「おまえはなんにも悪くない」
「でもお兄ちゃん鬱じゃん。お兄ちゃんが鬱なんて大事件だから、わたしも責任を感じて――」
「もう元気になった。思い詰めるな、あすか」
「立ち直り、はやっ」
妹は若干呆れながらも、
「お兄ちゃんらしいけどさ」
と付け加える。
左隣には、愛がいる。
「わたしとあすかちゃんで、両側からアツマくんをあっためてあげよう、っていう作戦だったんだけど」
いったいどういう作戦かっ。
「――もうだいじょうぶみたいね」
そう言いながらも、おれの左手を、右手で愛はずっと握ってくれていた。
あったかい。
「……幸せものだな、おれは」
「そうよ、感謝してよね」
「リア充だよお兄ちゃんは。両サイドから女子高生にサンドイッチされてるんだよ!?」
「サンドイッチってなんだ、サンドイッチって」
いつも――ふたりには、振り回されている。
愛に振り回され、あすかに振り回され。
でも、そんなふたりが――、
こういうときは、いつにもなく、ありがたい。