――もう、限界。
スキを見はからって、家を出た。
手には、まとめた荷物を入れたカバン。
つまりは。
× × ×
改札を出るとすぐに、羽田に電話をかけた。
出る羽田。
『こんにちは会長』
ゴクリ、と生唾を飲む。
『…どうしましたか?』
「あのさぁ…」
『…はい、』
「あのさぁ……あ、あのね、は、羽田」
『……?』
言うしかない。
「いま、アンタの邸(いえ)の、最寄り駅に来たんだけど」
『――ウチに遊びに来たかったんですか!?』
う……。
事情を話す、勇気を、
先送りにして。
「申し訳ないんだけど…駅前まで…来てくれないかな。案内してくれないかな」
きっと――アタシのいでたちを見ちゃったら、羽田、驚いちゃうだろう。
× × ×
「どうしたんですか!? その大きな荷物は」
「……」
「会長?」
「着替えとか…いろいろまとめてあるから」
「い、いきなり泊まりがけ、ですか」
「そんなんじゃないの…」
弱々しい声しか出ないよ。
「重そうだから持ちます」
「ダメ!!」
「で、でもっ!」
「自分で持つの! 自分で持っていって、自分で責任を取らなきゃ!!」
「会長――」
こんな時点で、
あえいでいて、
どうするんだ、
麻井律…!
「そういえば、
会長の私服姿って、
いままで見たことありませんでした。
お互いさま、ですけどね」
アタシはちゃんと、『よそゆき』の格好で――家出してきた。
羽田は、無理やり話題を変えようとしたのではなく、わたしの真意に気づいたことを、それとなく示したのだ。
× × ×
道中。
「明日美子さんは、NOとは言わないと思います」
「明日美子さん?」
「アツマさんとあすかさんのお母さんです。アツマさんは知ってますよね?」
「知ってる」
× × ×
玄関。
その、アツマさん、である。
入学式の日に会って以来だけど、アタシより遥か高い背丈は、はっきりと憶えている。
「利比古から事情は聞いたぞ」
やにわに緊張するアタシ。
「…めんどくさいやっちゃ」
責めるような口調ではなかった。
「おこら…ないの…?」
「へ」
「…おこら、ないん、ですか、?」
「こういうのは慣れてるんだ」
× × ×
豪邸としか、言いようがない。
突き抜ける天井。
破格の規模の広間。
でも不思議と――空気が馴染みやすい、そんな感じがしてくる。
『明日美子さん』の斜(はす)向いに、アタシは座っている。
「利比古くんの先輩なんだってねぇ」
「……はい。」
「疲れたでしょ~、ここに来るまで」
「……そんなことは」
「あるよ」
背筋を汗が伝う。
しかし、明日美子さんは陽気に笑って、
「――マッサージしてあげようか」
「ほえっ」
気が動転して――人ならぬ声が出てしまった。
明日美子さんはほんとうにマッサージしてくれた。
アタシの背中を、肩を、腕を――丁寧に揉みほぐしてくれた。
そして、これが仕上げだ、と言わんばかりに――アタシの頭を軽くなでてくれた。
「麻井さん。
おなかすいたでしょう」
すっかり明日美子さんに懐柔されたアタシは、ひとりでに首を縦にコクン、と振っていた。
「明日美子さん……」
「ん~~??」
他人の親なのに、
ひとりでに、彼女の袖口を握って、
「……よろしくおねがいします」
甘えてしまう。
× × ×
――羽田姉は、アタシを見るなり、
「麻井さん!! 会いたかったの!!」
返すことばの見当もつかないでいると、
「面白かったよ!! あなたが作ったスポーツニュース番組」
面と向かって「面白かったよ」と言われると、とても恥ずかしくなってしまう。
「そうね、野球パートが特に面白かった! わたし野球好きだし、『プロ野球ニュース』みたいで、楽しかった」
いざ、顔を突き合わせてみると、羽田姉のなにもかもがまぶしくって、余計にアタシは恥ずかしくなってくる。
髪、長すぎでしょ――とは、思うけど。
美人。
アタシがこういう精神状態じゃなかったら、とってもムカついているぐらい、美人。
甲斐田の言う以上だった。
第一印象だけど――、
『羽田姉には、アタシは全部かなわないのかもしれない』
本能的に、そういう諦めが、浮かんできた。
それは、ほどよい挫折で。
「――アンタ、これからアタシに料理、作ってくれるんでしょ」
「どうしてわかったの?」
「エプロンしてるじゃないの…」
「あ!!」
エプロンしてなくても、わかってたよ。
「今夜は、わたしだけじゃなくて、あすかちゃんと協力して、美味しいごはんを食べさせてあげるから」
エプロンしてると、羽田姉、まるで新婚の奥さんみたい。
…ちょっと、見とれてしまって、打ち消すようにブンブンと首を振る。
…なにやってんだか。
しっかりしろ、律。
「――アタシのわがままで、こうなったんだし、アタシも、手伝う義務があると思う」
「料理を?」
「――そう」
手伝わせてよ。
関わらせてよ。
「麻井さんは真面目なんだね!」
もしかしたらこの子は、一発で人間の本質を見透かすのが、得意なのかもしれない。
負ける……。
「うれしいよ! 手伝ってくれると」
負ける…けど、悔しさは、ない。
「無理しない程度にね」
× × ×
夕食後、
羽田姉が、
「今晩、どこで寝る?」と訊いてきた。
「わたしの部屋に布団敷こっか?」
彼女のベッドの隣で寝てしまうと、
完全敗北になってしまうと思ったから、
「えんりょ…しとく」と断った。
「ま、空き部屋、くさるほどあるもんねえ」
どんだけ豪邸なのか。
維持費の問題とか――そういった諸々(もろもろ)のことは、訊くだけヤボなんだろう。
「空き部屋で寝るよ」
「わかった。
でも、さみしくなったら言ってね」
彼女の笑顔に誘発されて、アタシは頷いてしまった。
この邸(やしき)のひと――生きるのが楽しそう。
思わず、アタシも『浸っていたい』という衝動にかられるけど。
どうしよう。
――とりあえず、
ひと晩だけ、
この幸せに、浸っていよう、溺れていよう。
それから、前を向き直せばいい。
「…どしたの?
さみしいの、麻井さん」
「ううん……考え事」
「そだそだ。トイレの場所、教えておかなくっちゃね」
「……」