麻井は案外素直に私についてきてくれた。
テスト終わりの午後、久方ぶりに麻井が甲斐田家の敷居をまたぐ。
「遠慮せずに上がってよ」
私が促すと、何も言わず、靴を脱いで丁寧にそろえた。
こういう所に、麻井の『育ちの良さ』が、にじみ出ている。
× × ×
私たちは2階の私の部屋に入った。
とりあえず私は机の前の椅子に座り、麻井はベッドを背もたれ代わりにして体育座りになった。
「お母さんが、じきに帰ってくるから」
――と言ってみたはいいものの、何して時間潰そうかとか、全然考えていなかった。
「そうだ、麦茶でも持ってこようか」
「…アタシあんま喉かわいてないから」
ボソリと麻井は言った。
「そっか…ごめんね」
私が謝ると、
「なんで……そんなに優しいの」
平常の強気な態度からは想像もできないような、ヘナヘナな声で麻井が呟いた。
「それはね、
麻井が麻井でなくなっちゃってるからかな」
反論が、ない。
「KHKの会長らしい所を見せて欲しいよ、もっと。
といっても、私はKHKを認めるつもりはないけどねっ」
「KHKか……」
眼をつぶって麻井が嘆く。
「そう、KHK。
一旦独立騒ぎを起こしたからには、あんたに投げ出して欲しくはないんだよね。
卒業まで私の好敵手(ライバル)でいてほしいよ」
「……張り合う気?」
「今のあんたとは張り合えないな。
あんたがあんたを取り戻したら、
張り合うって価値も出てくる、
――そういうものなんだろうけど」
「甲斐田……」
「どうしたの?」
「………ストレスのかかりっぱなしで………元気が出ない…………」
ようやく、
麻井が、弱音を吐いた。
× × ×
やがて、お母さんが帰ってきた。
「律(り)っちゃん!?
律っちゃんじゃない!!
久しぶりねえ~♫」
「どうも、こんにちは、お邪魔しています…」
「変わってないね♫」
「え」
× × ×
お菓子と冷たいレモンティーを運んで部屋に戻ってみると、麻井はクッションを抱いて横向きに寝転がっている。
私はテーブルにレモンティーのグラスとお菓子を置いて、麻井の斜め横に腰を下ろす。
「お菓子でも食べなよ。
レモンティーもあるよ。
甘いもの摂(と)ると、頭がスッキリするよ」
「あと5分だけ寝かせて」
「わかった、わかった」
しょうがない友人を持ったものだ。
「あのさあ」
「寝かせてよ…」
「寝ながら聞いてよ。
この前、利比古くんのお姉さんに会ったんだよ」
「羽田の、姉?」
「名前ぐらいは知ってるでしょ、愛ちゃん。
すごく可愛い娘(こ)だった。
こんなに可愛い娘が現実にいるんだっていうぐらいに。
才色兼備って、彼女のためにあるような言葉なんだなーって思った」
「名門校なんでしょ。受験も楽勝なんだろうね。東大でも受けるんでしょ、どうせ」
「――受験の話は、おいとこうよ」
「どうして?」
「あんたが苦しくなるでしょ」
起き上がった麻井が、レモンティーをグラスの半分くらいまで飲む。
「どこで羽田姉に出くわしたの?」
「本屋さん」
「へーーっ」
「彼氏連れでね」
いたずらっぽく、言ってみた。
「もしや、入学式の日に、羽田についてきた――」
「そう。アツマさん。」
考え込むように、黙ってしまった麻井。
クッキーをかじりながら、何やら思案していたかと思うと、テーブルに頬杖をついて、私の顔をまじまじと見てくる。
そして、
「甲斐田。」
「ん?」
「あんたもさ、
顔のつくりはいいよね」
「!?」
「美人さんじゃん。
制服じゃなかったら、ハタチぐらいの女子大生だし。
羽田の姉は、ロングだったんでしょ、髪?」
「どうして愛さんを見たこともないのにロングだってわかるのかなあ?
――そうだよ、腰まで届くぐらい、長かった」
「じゃあアタシはショートのアンタの髪のほうが好きだな~」
「『じゃあ』ってなに、『じゃあ』って」
「現物(げんぶつ)を見てみないとわかんないけど――甲斐田だって、羽田姉と遜色(そんしょく)ないんじゃないの」
何言ってんの。
「何言ってんの」
「アンタは、顔のつくりや身体(からだ)のつくりは完璧なんだよね」
しげしげと私を眺めやる麻井。
「ただ――」
「ただ?」
片眼を大きく見開いて、ニヤニヤとしながら、
「――下着が子どもっぽいのが、玉にキズだけどさ」
な、
な、
なにを言うかっ。
「――甲斐田、なにタンスに飛びついてんの?」
タンスを隠すようにして私は、
「み、見たなっ」
「は!?」
「見たんでしょっ、私がいない間に、私の下着!!」
「バカだねえ」
「あんたはバカじゃなくてヘンタイだからっ!!!」
「タンスなんか勝手に見るわけないじゃん」
「じゃ、じゃあ、どうして私の下着のこと知ってるのよ!?」
「そりゃ、女同士だからに決まってるでしょ。
もう高校3年なのにねー、せっかく大人っぽくてスタイルいいのにねー、下着があんなんだとカッコつかないよね~~」
そのときノック音がして、混乱している私の代わりに「どうぞぉ」と麻井が応答した。
ガチャリとお母さんが入ってくる。
「どうしてしぐちゃん、そんなにのけぞってるの?」
「お、おかあさん、せんたくものとかもってきたんじゃないよね」
「?」
「――用件。」
「用件はねー、
せっかくだから律っちゃん、お夕飯いっしょに食べていけば良いんじゃないかって思って~♫」
「えっ」
今度は麻井の方が飛び上がるようなリアクションを示した。
「都合悪かった? 律っちゃん」
「い、いえ、都合は悪くないです。
でも…ウチでも晩ごはんは作ってくれているので…」
それを都合が悪いっていうんじゃないの?
煮え切らないなあ。
「律っちゃん家(ち)の晩ごはん、美味しい?」
「えっ……」
な、なんでお母さん、揺さぶりかけるようなこと言うのかな??
「美味しくなくは……ないと思います」
煮え切らない態度を持続させて、麻井は答える。
何も言わないで、お母さんは微笑む。
× × ×
「甲斐田。」
「はい」
「アンタに勘違いして欲しくないことが、ひとつあって」
「はい。」
「………アタシは、自分の家族のことが、嫌いなわけじゃないから」
「…はい。」
× × ×
夕方6時を過ぎた。
「じゃ、アタシそろそろ帰るから…」と言うので、玄関まで見送ろうとする。
「お母さーん、麻井帰るって」
「呼ぶ必要ないのに」
「まーまー」
「……」
「また来てね。
いつでも♫♫」
「お母さん……その……今日は、ありがとうございました」
平常の殺伐とした佇(たたず)まいからはイメージもできない礼儀正しさだ。
でも……礼儀、正しすぎるかも。
とか、思っていたら。
「おやすみなさい、律っちゃん。」
と――言うと同時に、
全身でお母さんは麻井を抱きしめていた。
完全に、うちの娘であるみたいに。
ギュッと麻井を放さない。
麻井、たぶん顔面、まっかっかだ。
なかなかお母さんは麻井の身体を放そうとはしなかった。
ポカーンと放心状態で、麻井は立ち尽くしてしまった。
こういうとき、どう言えばいいか見当つかないけれど、
とりあえず。
「麻井……、
『おやすみ』って言ってあげなよ、
お母さんに。
『おやすみ』って言われたら、
『おやすみ』って返事するもんでしょ?
ね、麻井」
微熱を出したみたいにドギマギしている麻井だったが、
やがて口を開いた。
「――おやすみなさいっ」
そう、上ずった声で、
お母さんの愛情に、
麻井はレスポンスしたのだった――。