「……ここに参加してるひと、小さな頃から本を読むのがずっと好きだったというひとも多いと思います。
けれど、わたしは違って――『はねっ返り』ってことばがお似合いな――絵本を読んだりするより、お外で遊ぶのが好きで、公園でしょっちゅう男の子とケンカしてるような子どもでした。
そんな、本が嫌いだったわたしの行く末を危惧したのか――小学校低学年のわたしを、親が書店に連れていきました。
児童書コーナーで、『なんでもいいから読みたい本を自分で選びなさい』と言われて。わたしは直感で、講談社青い鳥文庫の棚から、松原秀行の『パスワードは、ひ・み・つ』とはやみねかおるの『そして五人がいなくなる』を抜き取りました。
『パスワード』シリーズと『夢水清志郎』シリーズの第1巻です。
『愛にはまだ早いかもしれないけど、読めるんだろうか?』とか親は思ってたらしいですけど、要らない心配で、あっという間に次々と両方のシリーズを読破していってしまいました。わたしの読書の原点は、松原先生の『パスワード』とはやみね先生の『夢水清志郎』なんだと思います。とにかく面白くて――ためになるとか教育的だとかそういうのよりも、前提として読書の取っ掛かりは、面白くなきゃダメだと思うんです! …個人の意見ですけどね。
大人が読むような本を読み始めたのは――たぶん小学校3年か4年だったと思う。ミステリー繋がりで、新潮文庫の延原(のぶはら)訳のシャーロック・ホームズ。家のソファかどこかに、文庫本が置いてあるのを見つけて……漢字を覚えるのは、比較的早かったのかな。……」
セミナー2日目。
きょうのディスカッションのお題は、「読書の原点」。
つまり、本が好きになったきっかけとか、そういうのを話し合うことになって――羽田愛さんという、とある名門女子校の文芸部部長が、いま話し終わったところだ。
きのう羽田愛さんが自己紹介したとき、場が一瞬だけ静まり返った。
それは、彼女が「好きな作家」として、古今東西の名だたる大作家を鬼のようにひたすら挙げまくったからだ。
こんな高校生――いるんだって思った。
名前しか知らない作家ばかり増えていく、僕なんかとは大違いだな。
文学少女って、実在したんだ。
元・男子校で、女子生徒のほとんどいない学校に通っている僕にとって、羽田愛さんの出現は…カルチャーショックだった。
文学少女なだけじゃない。
才色兼備だ――彼女は。
とくに、綺麗な色の髪。
サラサラの髪が長く長く伸びているのが、眼を見張る。
繰り返しになるけど、
こんな高校生――いるんだって思った。
× × ×
休憩が入った。
自販機に向かう僕。
すると、綺麗でサラサラの長髪が、眼に飛び込んでくる。
彼女の背中。
羽田愛さんの、背中。
なにを買おうとしてるんだろう――と思っていたら、彼女はブラック缶コーヒーのボタンを押した。
意外すぎる。
「あ、どうぞ。」
僕に気づいて、自販機を譲ろうとする羽田さん。
「どうも」
軽く会釈して、羽田さんは会場に戻る。
× × ×
どうしたことか。
僕が会場に戻ってきたら――自分の席の隣に、羽田さんが座っている。
「ごめんね、わたしの席が取られちゃってるみたいで。休憩時間だから仕方ないんだけど」
気さくに羽田さんは話しかける。
動揺を隠せぬまま、オズオズと僕は羽田さんの隣に着席する。
「――脇本くん、だよね。脇本浩平(わきもと こうへい)くん」
「え、僕の名前、覚えたの」
「覚えちゃった。」
羽田さん、満面の笑顔。
右手にブラックコーヒーの缶を携えてのその笑顏は、破壊力がすごい。
――ここで、思ってたことを言うべきか。
言わざるべきか。
僕は迷った。
迷ったが、意を決した。
「…………羽田さんは、」
「なーに?」
「頭が………いいんだね。」
「どうしてそう思ったの?」
「さっき、発言してるのを聴きながら――ずっと思ってた」
「ずっと、か」
軽く照れ笑いになった彼女は、
「ありがとう」
と僕に感謝した。
「羽田さんは、たぶん…なんでも読んでるんだね」
「なんでもじゃないよぉ~」
「でも、自己紹介で」
「ドン引きした?」
「し、してないしてない」
「いわゆる、20世紀文学! とか、いちおう読んでるだけ。
クンデラとか正直わかんないし。
あー、でも最近読み返したガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』は、面白かったかな」
『読み返した』のか――。
「やっぱり、いちばんは19世紀ヨーロッパ文学かも。
現代に行くにつれて、わかんなくなってくる」
――僕は、なにもかもわかんないよ。
作家の名前だけ知ってるから、なんとかついていってるだけ。
なんだか、右隣の羽田さんが、途方もなく、途轍もない、そんな存在に思えてきてしまう。
ホントにおんなじ高3なのか……??
打ちのめされる。
それでも。
羽田さんと、『共有』できる領域もあって。
「さっきのディスカッションで、羽田さんも名前を出してたけど。
僕も好きだったんだ、
『パスワード』と『夢水清志郎』。」
「エッ!? そうなんだぁ!!」
叫ぶように言って、喜ぶ彼女。
「テンション高いんだね……。
ま、シリーズの途中で読まなくなっちゃったんだけどさ、
『卒業』というか…なんというか」
「『夢水清志郎』シリーズの最終巻のタイトル、『卒業』だった」
「そ、そうみたいだね。
それで――延原(のぶはら)訳の新潮文庫『シャーロック・ホームズ』も、いま、読んでる」
「脇本くんとわたし、趣味が合うじゃない」
嬉しそうに彼女は言う。
「趣味が合うじゃない」なんて、女の子に言われたのは、もちろん生まれてはじめてだ。
これから先、こんなシチュエーション、あるんだろうか……。
ないんだろうな……。
この場限りの関係か。
彼女と、羽田さんと隣り合うのも、この休憩時間だけ。
さみしい。
青春、さみしい。
× × ×
セミナーもつつがなく終了。
そそくさと、出口に向かおうとしていたら、またもや鮮やかなサラサラロングヘアが眼に入ってきた。
(ロングヘア…どころじゃないよな。スカートの辺りまで伸びてる、超・ロングヘアだ…校則とはなんだったのか)
羽田さんの立ち姿は、単純に『まぶしい』と思った。
見とれてるのも変だし、さっさと帰ろうとしたら――、
大学生っぽい、背が高くてたくましそうな男の人が、羽田さんの眼の前にあらわれた。
「お~い愛、来てやったぞ」
「ヤダっほんとうに来たの?」
「迎えに来ちゃ悪いか……大学、すぐそこなんだよ」
「あいにく、ね」
「おみやげがあるぞ。2日間ごくろうさまだ」
「マジ!?」
「マジに決まってんだろが」
「どうして今日に限ってそんなにアツマくん気配りきいてるの!?」
「心外だなあ…」
「ほらすぐおこる~」
「大学生をナメるもんじゃない」
「え~、なによそれ~~」
これは……。
この関係は……どう見ても。
講師の、大手出版社の編集さんが、声をかけた。
「君――もしかして、戸部明日美子さんの、息子さんじゃあないか!?」
「あ、はい、そうですけど」
「いや~奇遇だなあ~、明日美子さんにはむかし、そりゃもう大変お世話になってねぇ」
「タハ……」
「名刺渡すから、明日美子さんによろしく言っといてくれよ」
「わかりました」
「彼女が現役だったら、オレなんかより、明日美子さんのほうが、よっぽど今回の講師にはふさわしかったと思うけどな~~」
「ええええ!? 明日美子さんって、そんなにスゴいひとだったんですか!?」
「うちらの業界だと、伝説だよ。――ところで君たちふたりは、つまるところ、」
「あ、おれはただのコイツの保護者です」
「戸部くん。正直だね、君は」
「……」
「羽田さんが照れちゃってるよ」
「……」
照れてしまった羽田さんは、『彼』のシャツの端っこを引っ張って、早く帰ろうと促している。
――、
住む世界の違いって、あるんだな、
ほんとうに。