「『手のない時は端歩を突け』」
「――は!?」
「知ってるでしょ加賀くん、将棋の格言で、さ」
「いきなりなんだよ」
「『歩のない将棋は負け将棋』って格言もあるよね」
「……もしかして、覚えたての将棋格言を、言ってみたかっただけ?」
「ぎくっ」
「そんなに、将棋のお勉強してますアピールがしたいのか」
「ぎくっ」
「……言っとくけど、その端歩はたいして意味ないぞ」
「ギョッ」
突いた端歩が、皮肉にも悪手だったのか、その後一方的に加賀くんに攻められ――わたしは負けた。
連敗記録、またもや更新中である。
小型サイズのノートに、黒星をメモする。
盤面を見ながら加賀くんが、
「いちいち対戦記録メモしてんのか」
「そうだよ」
「…むなしくならないか?」
ひどいなー。
「ひどいなー、せっかく将棋専用ノート作って、がんばってるのに」
「ふうん」
「関心ないんだ」
「ノートに書くより駒を動かしたほうが上達するぞ」
「よ、容赦ないね…将棋になると」
「おれは正論を言ったまでだ」
生意気なくらい…容赦ない。
「あのなー。
格言覚えたからって、勝ち負けにつながるわけじゃないだろー。
実戦だよ実戦。
勝つか負けるかどうかが肝心なんだから。
勝たなきゃ……意味ないだろ」
う~ん。
「…勝たなきゃ意味ないってキミは言うけど、負けから得られるものだって大きいんじゃないの? 負けてこそ、強くなれるのかもしれないし。
それにさ、
将棋って――勝ち負けがすべてなのかな。
勝つか負けるかだけじゃ、やっぱ物足りなくない?
もっと奥が深いんじゃないの?」
加賀くんは顔をしかめて将棋盤を見つめている。
「わたしも――よくわかんないけどさ」
『手のない時は端歩を突け』か。
「何をすべきかわからないときでも、とりあえず何かに取りかかったほうがいい」っていう考えを含んでいるような気がする。
たとえば、文章が思うように書き進まないときも、とりあえず何か書いてみる――そういうときってある、『案ずるより産むがやすし』とはちょっとズレるかもしれないけど、悩むよりも書く、『最善の手』ではないにしても。
――先に進みたければ、端歩でもなんでも突く。
「端歩でもなんでも、突かなきゃ始まんないよね」
「あんたのさっきの端歩は終わりの始まりだったけどな」
「ガクッ」
駒箱に駒をしまいながら、加賀くんが、
「ところでさ…あすかさん」
「なーに? 加賀くん」
「その……言いにくいんだけど」
「え?」
「あんたはさ、」
「…?」
「どうして最近……岡崎センパイのことを、『お兄ちゃん』って言いかけるようになっちまったんだ」
「…やっぱ、訊いたらマズかったのかな」
これまでにないくらい、申し訳無さそうな表情の加賀くん。
「か、かがくんは、さっしがいいというか――いがいにかんづくんだね、そーゆーとこ、たはは」
「……テンパらないでくれよ」
「てんぱってないよ~? わたし。ほら、ふつーだよふつー」
「この話はもうやらない」
「そ、そーしてくれると、うれしいかも~~、なーんてっ」
「おれじゃなくても気づくと思うけどな」
「ど、どうしてわかるのかな~!?」
深呼吸して、
平静さを、
徐々に取り戻し。
「――わたしに兄がいるって、加賀くんに話したっけ?」
「あんたから言われたかどうかはわかんねーけど、知ってはいる」
「そう。
――兄はここの卒業生なの。
3つ上でね…背が高くて、運動神経がよくて」
そうだ――岡崎さんもけっこう背が高いけど、それでもお兄ちゃんには、少し及ばない。
「――お兄ちゃんだけズルい、って思うことあるの。自分だけ身長高くて。なんでわたしも背が伸びなかったのかな~って、うらやんだり」
「そういうこと気にしたりすんの?」
「ときどき」
「あんた身長何cmなんだ」
あ。
加賀くんナマイキ。
「…子どもだねぇ、加賀くんも」
「いきなりガキ扱いかよ!?」
「それはけっこうデリケートな質問だよー?」
「そう…なんか。失礼……だったか、年上の、女子に」
キョドっちゃって。
「キミは部員だから特別に教えてあげるね。
155センチ。
高校に入ってから、1ミリも伸びてない」
「155…。
…そんな気にするほど、低くはないんじゃないのか?」
「えっ、うそっ」
「!? なんだよその反応」
「――お兄ちゃん基準だったからかも。お兄ちゃんより20センチ以上低かったから、世間一般が考えるより『自分は小柄なんだ』って思い込んでたのかも」
「要するに、意識しすぎだったんだろ」
「うん…」
「引け目を感じる必要ないんじゃないの」
「…そういうこと言ってくれたの、加賀くんが初めて」
きょとん、とする加賀くん。
…少しは照れくさそうにしてくれてもいいのに。
鈍感なのか、それとも単にお子様なのか…。
お子様だとしたら、この子は中学4年生くんだ。
「…まるで中学校を留年してるみたい。」
思わずそうけしかけたら、何を言ってるんだこのひとは……というふうな最高に微妙な顔をする。
早く高校生になってよ!!
ほんとにもうっ。
× × ×
「――ところで、なんで唐突に自分の兄貴の話、し始めたんだ? あんた」
「それこそ、『手のない時は端歩を突け』だよ」
「???」
「端歩を突いたの」
「よくわかんねーよ」
「キミが一人前の大人なのは将棋だけなのね」
「…あっそ。」