不機嫌な気分で目が覚めた。
パジャマのお腹のあたりが、少しはだけていて、だれも見ていないのに恥ずかしかった。
床に足をつけずに、椅子に体育座りみたいになって朝ごはんを食べていたら、
「コラっ姫、お行儀悪く食べるんじゃないの」
と案の定、怒られた。
それでまた不機嫌さがちょっとだけ加わって、髪をセットするのに時間がかかり、乗る予定だった電車の時刻に間に合わないところだった。
× × ×
星崎姫(ほしざき ひめ)。
大学2年生。
自覚している悪いクセは、あわてていると、ヘアブラシを放り投げて部屋を出てしまうこと。
きょうもやってしまった。
× × ×
先生のおっしゃっていることが約6割しか理解できなかったけど、2限を無難にやり過ごした。
それでお昼休みも3限も無難にやり過ごして、3限は必修だったので教場には戸部くんもいて、講義終了と同時にわたしは彼に声をかけたのだった。
「このあと予定とかある」
「ないが?」
わたしはCDショップの名前を言って、「行ってみたくない?」と戸部くんを誘った。
「なんでまた」
「一緒にCD見ようよ。楽しいじゃん」
「ひとりで行けばいい」
ごもっともだったが、
「…ごめんそんな気分じゃないの」
わたしの気分を察知したのか、一瞬真顔になった戸部くん。
「それにさ! 戸部くん音楽鑑賞的なサークル入ってるじゃない? 知識と教養を深めるためにぜひとも」
「そんな勿体(もったい)ぶらんでも、つきあってやるよ…」
彼は笑って腰を上げた。
× × ×
ひとりでCDの棚を見るよりも、
だれかとCDの棚を見るほうが楽しいのは、
真理だ。
わたしはクラシック音楽のコーナーに戸部くんを連れこんだ。
「ホロヴィッツの音源はどっこかな~っと」
「ホロヴィッツ? ウラディミール・ホロヴィッツか?」
「ほかにどんなホロヴィッツさんが居るっていうの」
「や、おれも名前しか知らないけど」
わざとわたしは大袈裟に肩を落とすジェスチャーをして、
「音楽を鑑賞するサークルなんでしょ」
「つったって、音楽のジャンルの幅は広いだろ、クラシックだけじゃないし。広く浅くなんだよ」
戸部くんの言ってる意味がわかんない。
読者の皆さんも、正直よくわかんないですよね?
「はい言い逃れ」
「――機嫌悪いんだな」
……そんなところだけ、するどくて、くやしくて、舌を噛む。
「あのさ、戸部くん」
「どうした?」
「あのね、」
一拍(いっぱく)置いて、
「時田さんって――知ってるんだよね、戸部くんは」
しどろもどろな言い方になって、すごく後悔する。
「知ってるよ…」そう言う戸部くんの声が、シリアスに響いてくる。
それで、わたしは引き抜いていたCDを棚に戻して、
「戸部くんにクイズ」
見なくたって、彼が身構えてるのはわかる。
だから――、
「――モーツァルトは、古典派かロマン派か」
「え、え、フェイントですか星崎」
そうだよフェイントだよ戸部くん。
残念ながら。
「答えて」
「ん…」
「これが教養よ」
「……ロマン派、かな」
「バカ!」
きまり悪そうに戸部くんは「不正解…?」と言う。
「古典派に決まってるでしょっ!」
わたしはCHOPINと書かれたCDを手にとって、
「ロマン派ってのはこーゆーのをいうのよっ、こーゆーのを」
「悪いな、不勉強で」
「戸部くん連れてきてよかった、知識の叩き込みがいがある」
「でもさ」
不満ですか、そうですか。
「うわべ、って言っちゃあなんだけど……、そういう音楽史的な知識よりも、肌で感じる音楽のほうが大事なんだって、言っててさ…愛が。」
困ったらすぐ、羽田愛ちゃんを持ち出すのね。
同居してるからって。
「『最近になって、ロマン派とか古典派とか、わたしあんまり気にしなくなっちゃった~』って、それこそピアノ弾きながら言ってたよ」
ふーん。
聴いてみたいな。
「それはそうとして」
「??」
「時田さんだけどね」
「あ、はい」
「彼女がいた」
「あぁ……」
「中途半端なリアクションやめてよね」
「それは、悪かったな……なんか」
「謝る必要ないし。かといって、慰められるのもなんか違う気分だけど」
「うん……。どうしたら、気が紛れるか?」
あえて返答せず、視聴台のヘッドホンを両耳にぶち当てて、戸部くんをシャットアウトしようとしたが、
「そういうのはよくないと思うぞ」
両耳にぶち当てようとした寸前に、ひょいっ、とヘッドホンを持ち上げられた。
ヘッドホン強奪。
なんてひどい。
「現実逃避はもうちょい話し合ってからにしませんかー、姫さーん」
なんてひどいの。
下の名前で、
下の名前で、
下の名前で呼ぶなんて。
胸がむず痒くなる。
背の高い戸部くんの上半身をポカポカと叩きたくなったが、公衆の面前なのでやめる。
「あっ」
「――なによ、戸部くん」
「いま、おれにパンチしたいって思っただろ」
「――」
――けれど、戸部くんは、わたしにヘッドホンをかぶせて、「つらいよな」ってひとことだけ言ってくれた。
悔しいけど、残念だけど、戸部くんは本質的に優しい。