将棋の第1手は、▲7六歩か▲2六歩だと決まっている。
角道を開けるための▲7六歩か、飛車先を伸ばすための▲2六歩。
素人のわたしには、そういった意図が▲7六歩や▲2六歩にあることぐらいしか、わからない。
加賀くんに、「なんで将棋の初手って▲7六歩か▲2六歩なの?」って説明を請(こ)えば、教えてくれるかもしれない。ただし、わたしがその説明についていけるかどうかは別問題だけど。
将棋の第1手が▲7六歩か▲2六歩のふたつの手にほとんど限定されているのって、不思議なことだってわたしは思う。
将棋には、無限の打ち筋? みたいなものがあるって、素人のわたしは勝手にそういうことを「妄想」しちゃうんだけど、なぜか初手は、▲7六歩か▲2六歩のふたつのどちらかに限定される、二者択一みたいに。
むずかしい言葉を使うと、▲7六歩と▲2六歩に、収斂(しゅうれん)されていく、っていうのかなあ……。
よくわからないことずくめだけど、定跡(じょうせき)っていうものの存在によって、指し方は自ずと限定されてくるわけだし、将棋の手が無限だっていうのは、ほんとうに素人考えの「幻想」にすぎないのかもしれない。
『文章』はどうだろう?
文章の書き方にも、定跡っていうものがあるのかなあ?
たぶんあるんだろうなぁ。
知らないけど。
書き出しが、文章の初手。
文章における▲7六歩や▲2六歩とはなんぞや。
たとえば、校内スポーツ新聞の記事を書くとき、
「▲7六歩っぽい書き出しになっちゃったなー」
とか、われながら、思うことがあったりする。
あくまで喩(たと)え。
経験則の。
× × ×
桜子部長に、原稿を見せる。
「どうですか、桜子さん?」
「…うん、いいじゃないの、いつもながら良く書けてる。
若干、書き方が硬い気もするけどね。
でも、問題はないよ。」
「書き出しが▲7六歩っぽかったですか?」
「???」
「それとも▲2六歩でしたか、わたしの書き出し?」
「???」
「ほら、『書き方が硬い気もする』って言われたから、書き出しが形式ばってたのかな~って思って」
『たとえ方が悪いよ先輩、たとえ方が』
まさかの加賀くんの横槍(よこやり)。
――わたしのことを「先輩」って加賀くんが呼んだの、もしかして初めて!?
「意味が伝わらないよ、『▲7六歩みたいな書き出し』とか」
「しょ、将棋にいちばん詳しい人から言われちゃったな~」
「だからだよ」
かわいくない……。
「ごめんあすかちゃん、わたしもあなたの喩(たと)え、よくわからなかった」
「突拍子もなかった?」
「うん…」
「すいません…」
「うん…」
ともあれ、原稿にはOKが出た。
だけど、ちょっと気落ちした。
× × ×
うつむき気味に、自分の席に戻る。
気を取り直すために、加賀くんに『指導対局やって』とお願いしようかと思ったが、無茶振りだったから、やめにした。
教壇の端のほうにちょこん、と腰掛けて、顧問の椛島先生が、両手で頬杖をつきながら、わたしたちのやり取りを見つめていた。
「椛島先生」
「どうしたのあすかさん」
「こんにちは」
「こんにちは…」
「元気ですか、先生」
「あすかさんこそ。
今にも溜め息つきそうな顔じゃない」
「そ、そんなですか…わたし……。
体調的には、元気そのものなんですが……」
「じゃあわたしの見立て違いだったね」
「加賀くんに容赦なくツッコまれたのは、ガックシ、でしたけど」
「…加賀くんか…」
意味深に、先生が加賀くんのほうを向いた。
「……加賀くんは文章書かないの?」
「――おれに言ってんのか、先生?」
「敬語。」
「う」
「う、じゃない」
「ごめんなさい…」
椛島先生が笑顏になった。
『謝れるじゃないの』と加賀くんに言っているみたいな笑顏だった。
加賀くんは、テレたのかデレたのか判(わか)らないが、少し赤くなった。
もしや、年上好き――??
あ。わたしだって、年上か。
桜子部長が、あごに手を当てて思案していたかと思うと、
「部長権限で、加賀くんに『課題』を出したいと思うんだけど」
と言って、どうかな? と加賀くんを見た。
いかにも面倒くさそうな眼つきになる加賀くん。
「桜子に賛成だな。加賀がウンザリしそうなやつを頼む」
「岡崎くんは余計な口出ししないでね。」
あーあー。非情の桜子さんだー。
「来週月曜までに、『自己紹介文』を書いてくる。
どうかしら加賀くん? これを課題にしたいのだけど。
加賀くんが書いた自己紹介文は、新聞に掲載しようと思う」
「載っけんのかよ!?」
「『載っけんのかよ!?』じゃないわよ加賀くん。載っけるためじゃなかったら、いったいなんのための課題だっていうの? 新入部員が入ったんだから、そのことを報告する義務も部にはあるのよ」
「どこに向かって報告する義務が……」
「いいかげんにしなさい加賀くん。『全校生徒に向かって』に決まってるでしょ」
加賀くん、沈黙…。
「――『いいかげんにしなさい』は、ひとこと多かったですよ、桜子さん」
しまった、という表情になる桜子さん。
失敗してしまったような顔、桜子さんにしては珍しい。
わたしは続ける。
「気持ちはわかりますけど」
「お、おい、部長が一言もしゃべらなくなっちまったぞ」
加賀くん、困惑…。
しょうがないなあ、と岡崎さんが、
「加賀、いいこと教えてやる。
桜子はいま、自分が『たいへんなことを言ってしまった』と思って、ショックでものが言えないんだ。
気持ちが激しく揺れ動いたりすると、ことばを失ってしまうんだな。
さーエラいことになったぞ加賀ぁ。
桜子にことばを取り戻してやるには、どうしてやったらいいと思う?
よ~~~く考えるんだな」
「――桜子の時計が、完全に止まってしまったな」
岡崎さん、苦笑い――。
絶賛時間停止中の桜子さん、ひざのあたりのスカートを両手で握りしめ、うつむいて誰からのコミュニケーションも拒んでいるみたいに――。
口を開いたのは、椛島先生。
「部長の桜子さんが故障してしまったみたいなので、
顧問権限発動。
加賀くん――あなたがすべきこと、わかってるね?」
「わかったよ。
書くよ。」
「先生には敬語!」
「……はい」
そのあと、小さな声で、『おれも悪かったです』とつぶやいたのが、わたしには聞こえた。
× × ×
桜子さんの歯車がふたたび回り始めるのに30分かかったけど――、
やっぱり素直なんだ、加賀くん。