朝。
ホワイトデーの朝。
朝ごはんを食べ終えて、いつものように熱いブラックコーヒーを飲んでいるわたし、なんだけど、『あるコト』が気になって仕方が無い。
アツマくんがまだ『お返しチョコ』をわたしに渡してくれていないのだ。
『起きてすぐ渡してくれるのかな』とベッドの中で思っていたのに、肩透かしだった。
今は出勤の身支度をわたしの座るダイニングテーブル付近でしている彼。
焦らすつもりなの?
あなた、起きてから、ホワイトデーのホの字も言ってないわよね。
「アツマくん……」
控えめに呼び掛けて、お返しチョコのコトについて、それとなく探りを入れようとするのだが、
「やべっ、急がないといかん。早い時間帯の電車に乗って、早めに店に行ってないといかんのだ」
と、彼は玄関に進もうとしている。
まさか、今日がホワイトデーだってこと、気付いてないワケじゃ……ないわよね??
× × ×
お昼。
文学部キャンパスのカフェテリア。
侑(ゆう)と一緒に日替わりランチを食べつつ、
「アツマくんだけどね、今日がホワイトデーなのを少しも意識してないような素振りなの」
と愚痴る。
「意識してないってコトは無いんじゃない? きっとアツマさんにも考えがあるのよ」
侑のコトバにうろたえて、
「か、彼、そんなに思慮深いタイプじゃないし」
「そうかしらねぇ」
微笑ましそうな表情で侑は、
「焦らす理由があるんじゃないの?」
「どうしてそう思うワケ、侑は……」
そう問うと、ニッコリとして、
「わたしがアツマさんを尊敬してるから、かな」
× × ×
夜。
バスルーム。
浴槽にちゃぽん、と浸かっているわたし。
結局、夕ごはんの席でも、彼はホワイトデー関連のコトに言及することは無かった。
わざと焦らしてるんじゃなくて、そもそもカンペキに忘れてるんじゃないのかしら。
「それって、ちょっぴり薄情だわ」
独りで呟いてから、お湯に肩を沈めていく。
× × ×
「ずいぶんと長風呂だったな」
「長くお湯に浸かりたい気分だったのよ」
「なんじゃそりゃ」
苦笑いのアツマくん。
「……苦笑いするんじゃないわよ」
「お?」
彼からプイッ、と顔を背けて、
「もうすぐ9時。本日の『読書タイム』になるワケ、なんだけど」
と言い、
「本を読み始める前に、なにか、ないの?? ……あなたから」
と、それとなく促してみる。
「愛。おれは――」
「うん」
「おれは、今日の夜は、中公文庫の『日本の歴史』を読むぜ」
また肩透かしだった。
ムカつく。
「愛、おまえはなに読むんかね」
答えてあげない。
彼と視線を合わせないように努めて、ヘロドトスの『歴史』を棚から抜き取る。
× × ×
床座りで、彼に背を向け通しで読書し続ける。
日付が変わるまで3時間を切ってしまった。
ホワイトデーが終わってしまう。
アツマくん、カンペキに忘れているとしか思えない。
苛立ちが混じって、ときどき読書を一時停止する。
わたしから『詰めていく』べきかしら……と思い始めていたら、背後でガバリ! とアツマくんが立ち上がる気配がした。
驚いて振り返る。
彼がタンスに突き進んでいく。
タンスの小さな引き出しを開ける。
完全にノーマークの引き出しだった。
そんなトコロにチョコを入れてるワケが無い、って決め込んでいたから。
でも彼はその引き出しから、明らかにホワイトデー仕様の包装の箱を取り出した。
そしてわたしの間近に歩み寄ってきた。
そしてそれからドッカリとわたしの目前に腰を下ろした。
「はいよ」
と言って、彼が包装を解く。
「ひと口ぐらい食ってくれ。今日が終わっちまう前に」
驚きが大きくて、彼に眼を合わせるのを忘れ、「ありがとう」の言いかたまでも忘れてしまう。
彼に従い、かなり高級だと思しきチョコレートを1個つまんで、口に持っていき、味わう。
「おいしいか?」
彼は訊いてくるけど、「おいしい」と答える前に、
「どうして、ここまで引っ張ったの?」
と尋ねる。
「ギリギリまで、焦らして……」
と言い、少し目線を下げるわたし。
うつむくわたしの頭頂部に、彼の手が置かれる。
「ドタンバまで焦らしたほうが、喜びも増すかな、って思ったのさ」
「……焦らし過ぎよ」
「すまんな」
「たしかに、すごく嬉しいけど」
「オーッ」
「……もっと、ナデナデして。ここまで焦らしたペナルティ。もっともっと、わたしを嬉しくさせてよっ」
「オオーッ」