昼過ぎに戸部くんの実家のお邸(やしき)に到着。
特別な用件があったわけでもなく、ただ単に来てみただけ。
このお邸とも長い付き合いであるがゆえに、フラリとやって来ただけのわたしをみんな歓迎してくれる。
ごくごく自然にリビングのソファに座り、ごくごく自然にバッグに入れてきた文庫本を読み始める。
背後に足音がした。
あすかちゃんかな? と思っていたら、
「葉山さん、こんにちは~」
やっぱりそうだった。
「ハイこんにちは、あすかちゃん」
「読書中でしたよね、声を掛けちゃダメだったかな」
「そんなことないわよ♫」
「んっと、アントニオ・タブッキの小説……。イタリア文学、でしたよね」
「そーよ」
「今日はフランス文学じゃないんですね」
「まあたまには、ね」
「わたしの兄貴、最近タブッキの小説を読んでたような」
「え、戸部くんが!?」
「題名は忘れましたけど」
戸部くんも……やるわね。
見くびっていたわ。
対抗心、芽生えてくるじゃないの。
× × ×
しばらく、わたしはタブッキの小説を読み、あすかちゃんはワイヤレスイヤホンで音楽を聴いていた。
あすかちゃんがワイヤレスイヤホンを取り外すのとほとんど同時に、
「ねーねー、あすかちゃーん」
「なんでしょーか?」
「いきなりなんだけどさぁ……」
「はい?」
「競馬新聞の読みかた、知りたくない!?」
あすかちゃんがド派手にビックリして、両手のワイヤレスイヤホンを落としてしまった。
実はタブッキを読むのと同時並行して『目論んで』いたのだ。
あすかちゃんをイジるみたいで少し良心がチクチクするけど、
「ホラホラ、あなたの姉貴分の羽田さんがこの前東京競馬場に行ったでしょう? ちょうどいい機会だと思ったのよ」
ワイヤレスイヤホンを拾ってから彼女は、
「ちょ、ちょうどいい機会って、なんですか」
不可解さを抱くのも当然ではあるけど、
「読んでみると、案外面白いものよ」
と言いながら、バッグから競馬新聞を取り出していく。
「じゃ~~ん、某テレビ局のチャンネル番号が由来の、某競馬新聞」
唖然とするあすかちゃん。
もちろん唖然とするのも理解できるんだけど、
「ヘミングウェイいるでしょ、アーネスト・ヘミングウェイ」
「ヘミングウェイさんが……なにか??」
「ヘミングウェイは競馬新聞を『文学』だと思っていたのよ」
『なんのことやら……』と無言で語るかのごとく、彼女は困惑。
それも予測の範囲内。
某競馬新聞を長テーブルに置き、彼女が見やすいようにセッティングする。
それから、
「競馬新聞の出馬表は『馬柱(うまばしら)』って言うの」
「うま……ばしら……?」
「お馬さんの馬に、建物の柱の柱」
「……」
「もっとも、馬柱(うまばしら)のことを馬柱(ばちゅう)って言う人たちもいるんだけれど」
「……」
「彼らの予想家としての資質は認めても、馬柱(ばちゅう)って読むのは認められないわね」
× × ×
あまりにもいきなり過ぎたかな。
・予想印の意味
・予想印が如何にアテにならないのか
この2点だけは解説してあげたんだけど、
『わたし、自分の部屋を整理整頓したかったので……』
って逃げられちゃった。
あすかちゃんにはまだ早かったみたいね。
あとで謝ろう。
長テーブルに置いたままの某競馬新聞の馬柱(うまばしら)を見つめながら、
「それにしても、本紙予想が1番人気に本命印打たないことが多いわよね……」
と率直な感想をこぼすわたしだった。
その直後、リビングまでだれかが近寄ってくる気配が。
気配がするほうに顔を向けたら、
「あら、利比古くんじゃないの」
羽田さんの弟の利比古くんのご登場である。
もしかしたらさっきのヒトリゴトが聞こえちゃったのかもしれないけど、気にしない、気にしない。
「あすかさんがバタバタする音が騒がしかったので下りてきてしまいました」
言う利比古くん。
「そんなに彼女は慌ただしくお部屋の整理整頓を?」
「はい。とても慌ただしそうに」
悪いことしちゃったなー、わたし。
あすかちゃんには謝るだけじゃなくて、『今度なにかご馳走してあげるわ』とか約束してあげなきゃいけないかもね。
さて、利比古くんはわたしの向かい側のほうのソファに座る。
わたしの左斜め前にもソファあるんだけどな。
そっちに座ってくれたほうが良かった。
そっちのほうが、可愛がれたのに。
思うようには行かないものね。
ところでわたしにはとある『疑問』があった。
あすかちゃんに関する疑問なわけだが、利比古くんに振ってもいいものか?
……いいわよね。
いいってコトにしときましょう。
「利比古くん? あすかちゃんのコトなんだけどさぁ」
「どんなコトでしょうか?」
「アルバイト。彼女、バイトやり始めることに前向きだったでしょ? どこまで進展してるのかなーって思って」
「進展って、自分に合うようなバイトが見つかったのか、みたいなコトですよね」
「そーそー。有力な候補あるのかしら、って」
「有力候補はあるみたいですよ」
「マジなの?」
ニッコリハンサムフェイスでもって彼は、
「マジです。なにやら、さいたまの浦和に、戸部家と縁の深い飲食店があるらしく」
あすかちゃんファミリーと縁の深いお店。
少し前のめりの体勢になって、わたしは、
「最寄り駅は?」
と訊く。
すると、
「えっと、南浦和駅、だったかなあ?」
南浦和!!!
「南浦和かぁ~~!!!」
「な、なんか葉山さん、一気に興奮し始めてません!?」
「だって、南浦和なんだもの☆」
「……??」
「利比古くんはそりゃーうろたえるでしょうけど☆」