高校時代の、2度目の彼氏の話。
× × ×
3年の2学期初めのホームルーム。
クラス委員長にすぐさま立候補したのが原(はら)くんだった。
他の立候補が無かったのでクラス委員長は原くんにすんなり決まったけど、クラス副委員長にはだれも手を挙げない。
仕方なくわたしが挙手した。
2学期初めだったので早い放課後で、わたしは中庭の椅子に座って紙パックのオレンジジュースを飲んでいた。
丸太を半分に割って作った椅子。わたしは、オレンジジュースを飲み切ったあともその椅子から立ち上がらず、バッグから文庫本を取り出そうとしていた。
しかし、背後から、
「大井町(おおいまち)さんだ」
という男子の声がしたので、すごくビックリして文庫本を地面に落としてしまった。
慌てて文庫本を拾って振り向く。
クラス委員長に就任した原くんが立っていた。
「原くん!? び、ビックリするでしょっ、いきなり声掛けされると。しかも原くん、わたしの後ろから……」
「だめだったかー」
反省の色がまったく見られないので、
「天然ボケタイプなの? もしかして」
「そう思う? 大井町さんは」
「だって……」
「きみが副委員長になってくれたから、挨拶しようと思って」
「なっ、なにそれっ。たかがクラス委員のことでしょ? いちいち挨拶だなんて」
「『されど』クラス委員、とも言えないだろうか」
「……不思議なことばっかり言うのね。そんなタイプだとは思ってなかった」
「タイプタイプってきみは言うけど。ぼくときみ、1学期はそこまでコトバを交わしたりはしてなかったよね?」
「確かに……そうだけど」
「ということは、ぼくの『本質』を、大井町さんは知らないわけだ。裏返せば、大井町さんの『本質』を、ぼくは知らない……というわけだが」
こんな言い回しをする男子をいまだかつて知らなかったから、困惑した。
困惑していたら、
「せっかくクラス委員になったんだ。これからは、もっと話そうよ」
と、返答するのに苦しむコトバを、原くんが投げてきたのだった。
× × ×
クラス委員として関わり合う機会は思いのほか多かった。
誤算だった。
あのホームルームで挙手しなければ良かったのに、という後悔のほうが最初は勝(まさ)っていた。
だけど、クラス委員長として、原くんは、間違いなく有能で。
嬉しくない誤算。
それが、いつの間にか――嬉しい誤算へと、変貌していて。
どちらからということもなく。
わたしと原くんは、毎日いっしょに帰り道を歩くという仲になった。
10月の終わり頃。
秋雨がしとしとと降る帰り道。
季節に鈍感な原くんは、制服に関する規則が緩いのも手伝ってか、気温が下がってきているのにカッターシャツ姿だった。
見かねたわたしは自分の傘を彼の頭上に掲げて、
「風邪ひいちゃうわよ? あなたはこういうトコロに無頓着なのね」
「雨から守ってくれるのはありがたいけど、きみが濡れてしまわないだろうか」
「あなたが優先よ」
……言ってから、恥ずかしいことを言ってしまったことに気づいて、傘を掲げたまま眼を伏せた。
「いいや、レディ・ファーストだ」
彼のそんなコトバ。
わたしは眼を伏せたまま、くすぐったくなってしまって、
『なんだか、帰り道が、楽しい。寄り道したりして、帰る時間を長引かせたい』
と思うようになってしまった。
× × ×
たしかに、わたしは原くんに惹かれていた。
原くんのほうでも次第に『その気』になっていたはずだ。
だけど、わたしには『恐れ』があった。
どんな『恐れ』か?
踏み込むことに対する『恐れ』だ。
踏み込んで踏み込んで、踏み込み過ぎてしまったら……。
1年生の夏に『カズ』とつきあって、失敗した。
踏み込み過ぎたがゆえの失敗。
失敗して痛かったのが、『しこり』みたいになって、2年以上経っても胸の奥に残っていた。
近い距離感で原くんと関わり合うのは楽しかった。
でも、
『これよりも先の段階に進んでしまったら、たぶん……』
という後ろ向きの思いも否定できなくて。
「バイバイ」と言って、手を振って別れ、自分の家への帰路を行く。
その最中に、
『どうせ、この関係も、いつか……』
という感情が盛り上がってきてしまう。
【諦念(ていねん)】
というコトバの意味を、だんだん深く知っていく。
× × ×
原くんはクラシック音楽が好きだった。
「今度、ぼくの家で、レコードを聴かせてあげてもいいよ」
そう告げられたのは、冬。2学期の末(すえ)。
『ぼくの家で』
このコトバが、鈍くわたしに響いた。
原くんの家に誘われている。
でも、行っちゃうと。行っちゃったら。
関係がおかしくなっちゃうかもしれない。
高1のときのカズとの苦い思い出が、せり上がってくる。
「どうしたの、大井町さん??」
わたしがなんにも言えなくなっているから、眼の前の原くんが心配する。
わたしはどんどん息苦しくなった。
妥協するしか無かった。
だから、わざと廊下の窓に眼を逸らし、
「クラシック音楽は、詳しくないし。わたしが聴いても、微妙な感想しかあなたには言えないと思うし」
「そんなことないと思うけどなあ」
「あるの。あるのよっ」
窓に向かって吐き捨てた。
相当とんがった声が出てしまって、自分で自分が怖くなった。
恐る恐るスローモーションで原くんのほうに顔を向けようとした。
原くんは眼を逸らしていた。