文学部キャンパス。
開店前のカフェテリア。
わたしの左隣の椅子の古木紬子(ふるき つむぎこ)ちゃんが向かい合っているのは、カフェテリアスタッフの及川太陽(おいかわ たいよう)くん。
うつむき通しの紬子ちゃんに、
「朝っぱらから景気が悪いな」
と腕を組みながら太陽くんが言う。
紬子ちゃんは、か細い声で、
「社長令嬢である私に向かって『景気が悪い』なんて言わないでよ」
「おいおいおい。今日の古木ダメダメじゃねーか」
依然うつむく紬子ちゃんに、太陽くんは、
「俺には大学のシステムは良く分からんが、留年のピンチなんだってな」
「……」とうなだれる紬子ちゃん。
太陽くんへの対抗心が消えかかってしまっている。
彼女の沈みぶりを目の当たりにして、太陽くんは少し戸惑ったような表情に。
だけど、彼は両膝を強くバン!! と叩いて、
「古木」
と呼びかけて、それから、
「おまえのためにひと肌脱いでやる」
と力強く言ってあげる。
彼が「ひと肌脱いでやる」と言ったから、紬子ちゃんのほっぺたが紅(あか)く染まる。
なんともいえない気持ちになったような顔で、彼女は少し目線を上げる。
「なんだよ。恥ずかしがるなよ」
「あなたが……変なこと言うからでしょ」
「だまれ」
「!?」
「黙って俺のスペシャルメニューを食いやがれ。今ここでしか食えないスペシャルメニューだ。古木、おまえ1人のためだけに作ってやるんだ。しかと味わえ」
紬子ちゃんの目線がさらに上がった。
真向かいの太陽くんを見つめた。
だけど……「おまえ1人のためだけに作ってやるんだ」と言われたのが恥ずかしかったのか、太陽くんからもわたしからも視線を逸らしてしまう。
「なんだなんだー」
太陽くんはふたたび腕を組んで、
「古木らしくないぜ。いつもは俺の料理に闘争心むき出しなくせに」
紬子ちゃんは視線を逸らしたまま、
「……早く取り掛かりなさいよ。カフェテリアの開店時刻になっちゃうでしょ」
「そのつもりだ」
紬子ちゃんとは対照的に余裕のある太陽くんが、勢いよく腰を上げる。
× × ×
太陽くんが作ってあげたのは麻婆丼だった。
見るからに美味しそうだ。
すっごく美味しそう。
食べなくても分かっちゃう。
紬子ちゃんたった1人のためだけのスペシャルメニューだから、わたしは食べられない。それが悔しいぐらいに美味しそう。
「冷めないうちに食べろよ。おまえ猫舌とかじゃ無かったろ」
自信あり、といった様子で太陽くんが紬子ちゃんに促す。
紬子ちゃんがレンゲを掴む。
麻婆丼をすくう。
レンゲを口に持っていく。
食べたあとで、大きく眼を見開く。
あまりの美味しさに衝撃を受けたんだと思う。
しばらく唖然となって、そのあとでうろたえる。
でもふたたびレンゲを掴んで、ふたたび麻婆丼を口に持っていくと――あとは止まることが無かった。
「紬子(つむぎこ)」
太陽くんが彼女を下の名前で呼んだ。
意図的に、だろう。
「……なにかしら?」
ボショリ、と言う紬子ちゃんに反発する様子は無い。
「スープも飲め。まろやかな味わいが麻婆丼の辛味と調和する」
言われた通りにする紬子ちゃん。
麻婆丼もスープも完食して、放心状態の彼女。
その左肩にわたしは右手を優しく乗せて、
「すごくすごく美味しそうに食べてたわね!! まるで太陽くんに『魔法をかけられた』みたいに!!」
「ま、まほう……??」
「これで紬子ちゃんは120%留年しないわ」
太陽くんは満面の笑みで、
「俺の料理に救われちまったみたいだな、紬子」
彼女はしばらく押し黙ったけれど、やがて、
「2回も下の名前で呼ばないでよ」
と弱く反発。
「じゃ、紬子(つむぎこ)じゃなくて『コムギコ』って呼ぶか」
「あ、あ、あのねえっ!!! ふざけてるの!?!?」
「紬子ちゃん、落ち着いて落ち着いて」
急に立ち上がったので、落ち着かせる。
弱く握りしめた右拳をテーブルに置く彼女。
そんな彼女に、わたしは苦笑しながら、
「ねえ紬子ちゃん。今回ぐらいは、『美味しい』って言ってあげても、いいんじゃないの?」
のけぞって、怯えるように、
「い、いやだわ……。それだけは、いやよ。いやっ」
「どーしてよ」
わたしは、
「『美味しい』って言っちゃうと、負けを認めたみたいになっちゃうから?」
「……そうよ。こんなところで負けたくないものっ」
「でも、『勝ち負け』より大事なものもあるんじゃない? 太陽くんは、あなたの人生の危機を救ってくれたのよ」
「愛さん、大げさよっ」
「大げさじゃないわよ、紬子ちゃん」
説得したい気持ちでいっぱいになって、
「囚われのお姫さまを救う王子さまみたいだった、太陽くん」
と言い、
「感謝してあげなさいよ」
と言う。
麻婆丼の辛さとは無関係に紬子ちゃんの顔が真っ赤になる。
「紬子」
またもや下の名前を呼んだ太陽くんが、
「美味かったのか、美味くなかったのか……。まあ、もう結論は出てると思うが」
と言い、微笑(わら)いながら、
「どーなんだっ♫」
と問いかける。
1分間近くの沈黙。
そして、それから。
「『美味しい』なんて、絶対に認めたくないっ……。負けは認めても、あなたの料理を、『美味しい』だなんて、絶対、絶対に……!!」
と、震えっぱなしの声で、紬子ちゃんは。