廣松渉の『新哲学入門』なる本を読んでいたおねーさんが、ぱたん、と本を閉じて、彼女の真向かいのソファに座っている兄貴に、
「アツマくん。本は読まないの?」
トボケた眼でスポーツ新聞を見ていた兄貴は、
「愛。急かさないでくれたまえよ」
と不可解過ぎる口調でおねーさんに言う。
「急かすってなによ。急かしてないわよ」とおねーさん。
「スポーツ新聞をじっくりと読んでいくのも、読書の前のウォーミングアップになるんだ」と兄貴。わけがわからない。
おねーさんもわたし同様にわけがわからない様子で、
「あなた言ってなかった!? 『三が日の間(あいだ)に必ず1冊読み終える』って」
しかし愚かなる兄貴は、
「そんなこと言ったっけ」
「び……ビリビリに破くわよ、そのスポーツ新聞」
怒(いか)り始めたおねーさんに構わず、
「次に読む人のことを考えろよ。破いちゃったら読めなくなるだろ? 読みたい人は他にもきっと居るはずだし」
「ちょっとお兄ちゃん!! 正論モドキのこと言って、おねーさんを困らせないでよ」
たまらずわたしは口を挟んだ。
「あすかちゃんの言う通りよ。あなたのせいで頭の片方がズキズキしてきたわ」
兄貴はやや真面目になって、
「それはいかん」
と言って、スポーツ新聞をほっぽり出して、おねーさん側のソファに行って、おねーさんの左隣に腰を下ろして、
「どこが痛むのかな」
と言ったかと思うと、右手を彼女の頭頂部に引っ付ける。
なにをやってるのかな!?
戸惑いのおねーさんは、
「きゅ、きゅ、急に、スキンシップ、しないで、ビックリしちゃうから」
と、真っ赤になってしまう。
× × ×
兄貴の驚くべきスキンシップを引きずっているのか、グランドピアノを弾こうとしているおねーさんの顔がまだほんのりと赤い。
「リクエストは受け付けてくれるか?」
兄貴がマヌケな声を出す。
横の椅子に座っているわたしは、兄貴の左の腰あたりを右腕でパンチして、
「なんでそんな無神経なことが言えるの!?」
「無神経じゃねーよ」
「自覚が無いってわけ!? あと5回パンチ食らいたいの!? ねえっ」
「新年早々落ち着きを欠きやがって。これだからあすかは……」
わたしは右拳をキツく握りしめる。
バカ兄にそんなこと言われる筋合い無い!!
「――兄妹ゲンカ、元気があっていいけど」
ここでおねーさんが、
「わたし、早く弾き始めたいの」
と、たしなめる意図の含まれたコトバを言う。
慌てて右拳を柔らかくして、背筋を伸ばして、グランドピアノのおねーさんを見る。
「アツマくんのリクエストは、次回」
と言い、彼女は音楽を奏で始めた。
彼女のお母さんがウィーザーをよく聴いていて、水色のジャケットで有名なアルバムを譲ってくれたらしい。
1時間近く音楽を奏でていたおねーさん。
パチパチパチと拍手を送った兄が、
「いやぁ~~、いつもながら名演奏だった」
と言ったあとで、
「おれたちが産まれる前の楽曲がほとんどだったが」
と世界でいちばん余計なコトバを付け加える。
立ち上がったおねーさんが、どんどんわたしたち兄妹のほうに近づいてくる。
兄の眼前(がんぜん)でピタリと止まって、
「あなたも立って」
と告げる。
「なんだよ。おれがなんかマズいこと言ったか?」
「お仕置きするために立たせるわけじゃないのよ。思考回路が鈍重(どんじゅう)ね」
「む……」と言いながらも、ニブニブ兄貴はゆるく椅子から立ち上がる。
そしたら。
2秒後に、おねーさんの抱きつき。
真正面からぎゅうっとハグしていって、兄の胸板に顔を密着させる。
「ありがとう、名演奏だって言ってくれて」
と甘えつつ言って、
「お年玉の代わりに抱きしめてあげる」
と、幸福感に溢れた笑顔になる。
× × ×
2階に上がって部屋に戻ろうとした。
だけど、部屋への廊下で利比古くんと遭遇してしまった。
同じフロアで部屋と部屋の距離も近いんだから、これは当たり前の「遭遇」。
なんだけど、わたしの利比古くんへの意識が大晦日あたりから変な方向に行っているから、こんなふうに出くわすと、思わず視線を逸らしてしまう。
棒立ちで顔を見られないわたしに、
「姉とアツマさんは、どうでしたか?」
と彼は。
弱い声でわたしは、
「漠然とした質問には、うまく答えられない」
「あー。それもそうですね」
呑気に、
「質問を具体的にするなら――姉はどの程度アツマさんにベタベタしていたか、とか」
「ベッタリしてたよ」
「ベッタリしてましたか」
「ベッタリしてたけど、キレイなベタつきかただった」
おそらくは苦笑して、
「なんですか、その表現」
「なにもかもキレイなおねーさんだから、出来る芸当で。おねーさんには、やっぱりかなわないや」
「新年早々自己卑下なんて、少しあすかさんらしくないかも」
「だって、おねーさんが眩しすぎるんだもん」
「まーたそんなこと言う」
なんだか勢いのある利比古くんにちょっと戸惑いつつも、
「眩しいのは、彼女だけじゃなくて……利比古くんだって、弟のあなただって、眩しく見えるときが、ある」
「あすかさんにとって、ぼくが、眩しく?」
ひとりでに心臓が跳ねた。
「意外ですね。あすかさん普段、簡単にはぼくのこと評価してくれないのに」
『……過小評価しちゃってたんだよ』
もう少しで、そういうコトバが出るところだった。
だけども、胸が鈍く疼(うず)いて、言えなかった。
利比古くんとの関係性が、色を変え始めている。
その事実を認めるのが怖いから……痛い。