年が明けた朝。
自分の部屋を出て、階段に向かって廊下を歩く。
背後からドアが開く音。
利比古くんも自分の部屋から出てきたのだ。
わたしの背筋が一瞬寒くなる。
「あすかさん」
背中に利比古くんのコトバ。
振り向くことをためらう。
「あすかさ~ん?」
再度呼ばれた。逃げられない。
ゆっくりと慎重に振り返って、
「と、としひこくん……『あけおめ』だね」
「そうですねえ」
利比古くんが満面の笑みになった。
顔を背ける。
背ける理由が10個以上は思いつく。思いついてしまう。
「あけましておめでとうございます、あすかさん」
優しい声だった。
顔を背け続けざるを得なくなる。
「う、うん、おめでとう」
そう言って、変な間(ま)を作ってしまったけど、やがてほんの少し、視線を彼の顔のほうに寄せてあげる。
「ぼくの姉とアツマさんもお昼から来るそうですし、賑やかなお正月になりそうですね」
「だ、だよね。おねーさんと愚兄が、来る」
ハハハッ、と軽快な笑い声。
「あすかさーん。新年早々、アツマさんのことを『愚兄』って呼ぶなんて」
「……いけないの?」
「いけないなんて言いませんが」
彼は、
「あすかさんの書く文章、ほんとうに『キレイだな』って思うんです。文体、って言うのかなあ? 文体が整ってるというか、なんというかで」
と言って、
「書きコトバに関しては、もう完全にプロフェッショナルだと思ってます」
「わたしが、プロフェッショナル?」
「あすかさんが。」
「そう……。それで、利比古くんが言いたいことって、いったい」
「せっかく書きコトバがあんなに優秀なんですから、話しコトバのほうも、もっとキレイになってほしいんですよ。『愚兄』なんてワード、キレイじゃないでしょう?」
わたしは俯く。
いろいろと歯がゆくて、くちびるを噛む。
× × ×
お邸(やしき)メンバーのみんなで朝ごはんを食べたあとで、お母さんと共(とも)にダイニング・キッチンに残る。
わたしが『一緒にコーヒーでも飲もうよ』と言ったのだ。
「ねーねーあすか。コーヒーじゃなくて、お酒が飲みたくない?」
いきなり言うお母さん。
「とんでもないこと言わないでよ。まだ朝でしょ」
「でも元日の朝なのよ」
「お母さんって、なにげにお酒大好きだよね」
「えー、とっくにそう認識してると思ってたのに」
お母さんペース。
伝えたいことが伝えられなくなりそう。
ふたりきりの環境を作ったのは、お母さんにしか打ち明けられないようなコトを伝えたかったから。
だけど、お母さんペースになってきてるし、わたしの「勇気」のレベルも上昇してこない。
打ち明けられる見込みがだんだん薄くなってくる。
ひたすら手前のテーブルに向かって俯く。
すると、ヒョイッ、とお母さんがポチ袋を差し出してきた。
「えぇっ……お年玉!? もしかして」
「福沢諭吉さんが3枚」
困惑。
「諭吉さんのお札(さつ)も、そろそろ見納めだものね」
「み、見納めだから、わたしに3万円あげるって言うの」
「拒否権は無いわよ~♫」
困惑の上に、困惑が。
× × ×
言わば『小型リビング』な、やや狭いスペースに行く。
そこにはサナさんが居た。
テーブルにチューハイの缶が3本。
サナさんもやはり酒豪(しゅごう)なのだ。
「ちょうど良かった。あすかちゃんとの会話が、酒の肴(さかな)になる」
お母さんからのポチ袋を握ったまま、サナさんの真向かいに座る。
「お年玉、もらったんだね」
「受け取っちゃいました。断り切れなくて」
わたしは、
「わたし、与えられてばっかり。自分でも稼いでいかなきゃ、って思いはあるのに。2年の後期が終わったらバイトしようと思ってたんです。踏み出さないと、贅沢を貪(むさぼ)るお嬢さまみたいになっちゃうし」
と言って、サナさんを見据える。
サナさんは右腕で頬杖。
アルコールの影響がぜんぜん見られない顔で、
「――絞ってるの? 候補は。バイトの候補」
わたしは苦しくなって、
「絞り切れては、いないです……」
「フム」
サナさんは、
「とりあえずシャンプーだね、あすかちゃん」
「ほ、ほええっ!?」
「オー、すごい声が出た」
× × ×
『お年玉の代わりの極上シャンプー。これで、あすかちゃんの焦りも無くなる』
これがサナさんの言い分(ぶん)だった。
『焦り』……。
× × ×
おとなしく従って、長めに髪を洗ってもらった。
さっきのダイニング・キッチンでは結局コーヒーは飲まなかった。だからだろうか、眠気のようなモノがやって来て、眼がトロ~~ンとなっていく。
近くにあったソファに身を預ける。
背中を強く引っ付けて、眼を閉じる。
眠りに入る寸前だった。
だけど、前方からだれかが歩いてくる気配がしたから、いったん閉じた眼を開けてしまう。
お母さんでもサナさんでもない。
利比古くんでもない。
流(ながる)さん。
少し背筋を伸ばして流さんを見上げる。
「どしたの、あすかちゃん」
「今年もよろしくお願いします」
「あ、うん。よろしく……」
「質問が1つあるんです。今年最初の質問」
「え、ぼくに?」
「ハイ」
20代後半の、利比古くんほど華々しくはないけど、なかなかにイケてる顔面を見上げながら、
「わたし、焦ってるように見えますか?」
「『焦ってる』? きみが?」
「焦ってるように『見えるか』『見えないか』のどちらかで答えてください」
「んんっ……」
「拒否権は無いですよ」