ベッドに横になりながら、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番を聴いていた。
ノックの音。おそらく母がドアを叩いたのだろう。
ドアを開けて母が入ってくる。ノックの意味が無い。
「堕落(だらく)してるわね亜弥(あや)。ダラダラと堕落(だらく)しちゃって……」
少し身を起こしたわたしに洗濯物を渡しながら、
「最近はヒバリのほうがよっぽど真面目に見えるわ。弟に負けてていいの?」
と言い、
「いくら大学に行く必要無い日だからって。早く下(お)りてきて朝ごはん食べなさいよ」
と言う。
わたしは時間をかけてベッドから降り立つ。
渡された洗濯物はひとまずベッドに置いておいて、
「まだわたしのほうが『勝ってる』から」
と母に言う。
「ヒバリに、真面目の度合いで?」と母。
「わたしはそう思う」と、ヒバリの姉のわたし。
× × ×
朝ごはんが遅かったので、昼ごはんも遅かった。
古本屋さんに行きたくて、猪熊家(いのくまけ)を出る。
近くに商店街があって、行きたい古本屋さんはその中に。
古本屋さんにたどり着く前に、自動販売機で立ち止まる。
商店街のこの自販機はオリジナリティに溢れていて、日本国内ここでしか買えないホットドリンクを売っていたりする。
『最近はこの自販機も、マスメディアへの露出が多くなってきたわよね……』と思いつつ、財布を取り出す。
しかし、寒いからか、指が思うように動かず、小銭をうまくつまむことができない。
ついにわたしは100円玉を取り落としてしまった。
転がる硬貨を慌てて追う。
すると、前方に居ただれかが100円硬貨を拾ってくれた。
顔を上げて、相手の顔を見ようとする。
そしたら……あまりの衝撃で、財布もトートバッグも地面に落っことしてしまった。
× × ×
「この自販機現金しか使えないんだよね。そこもオリジナルな要素なのかな」
羽田利比古くんは、そう言ったあとで、日本国内ここでしか買えないホットドリンクをぐいぐい飲んでいく。
まだ缶を開けていないわたしは、
「久しぶりですね」
「だねえ」
わたしの受けた深い衝撃を感知することも無く、楽しそうに笑って、
「飲まなくていいの? 猪熊さん」
と彼は言ってくる。
飲むよりも、言いたいことがあって、それは、
「もう少し感慨深くなってもいいんじゃないですか、羽田くん? 進学してからぜんぜん顔を合わさなかったのに」
「そう言うってことは」
羽田くんは、
「きみのほうは感慨深いってコトなんだよね」
と、整いに整った顔面とは裏腹のデリカシー無き口調で言ってくる。
『あたりまえじゃないですか』
明瞭に発声できなくて、自分で自分に呟くような感じになってしまった。
「今日の猪熊さん敬語ばっかり使ってるけど、理由は?」
「……」
「おーい」
缶を開けて、ぬるくなりかかったドリンクを半分以上一気に飲む。
彼に背を向けて、
「わたしの意図は羽田くんが考えてください」
「エッ、どういうこと」
「思えば、国語の現代文がかなり苦手でしたよね、あなたは」
× × ×
飲んだら別れた。
複雑に絡まってしまった枝毛みたいなやり取りに終始してしまった。
帰り道はずっと下向きに歩いていた。横断歩道のときだけ前を向いた。
家に入って、手を洗って、自分の部屋に入って、窓のカーテンを閉めた。
立ったままでいたら、胸のドキドキが急激に顕(あら)わになった。自分自身では抑え込めない種類のドキドキだった。
羽田利比古くんに逢った。短く会話した。それだけなのに。
間違い無くここ3ヶ月で最大のビッグイベント。
わたしの内部で羽田くんの占める部分が小さいわけもないから、胸の鼓動が持続する。
夕方5時のチャイムが鳴った。
ヒバリが中学の部活をサボって帰ってくるかもしれず、焦って、室内をウロウロしながら「対策」を考えようとした。
しかし、時は待ってくれず、声変わりのほぼ終わった『ただいまー』という声が聞こえてきて、すごい勢いで階段を踏み上がる音も耳に響いてきた。
混乱したわたしは、低いテーブルの前にあった座布団をしゃがんで掴んだ。
ドキドキが収まらないままにドアに接近した。
ヒバリの部屋のドアの軋(きし)みが聞こえた。
ヒバリの気配がドア越しに伝わってきた。
ゴンゴンゴンゴンゴン、と行儀の悪い速さでドアを叩いてきた。
わたしはドアノブに手を掛けた。
弟の返事も待たず、ドアを開けた。
隙間風(すきまかぜ)に逆らうように、わたしは座布団を振りかざした……。