授業が終わった。
きょうは、放送部には顔を出さないことにした。
引退した身であるということよりも、早く家に帰って受験勉強がしたかったということが理由。
早く帰宅したかったので、校舎の出口までまっすぐに向かっていった。
1階に下りて、出口はもうすぐそこ……という地点まで来た。
――見慣れた男子生徒の姿が眼に飛び込んでくる。
……羽田利比古くん。
わたしに気づいた彼は、
「あ、猪熊さん、もう下校?」
と訊いてくる。
「……はい。」
わたしは答える。
なぜか、声が若干上(うわ)ずる。
どうして。
「ぼくはまだまだ帰れないんだ。年末に向けてバタバタしてて」
――「KHK紅白歌合戦」のことで、だろう。
この年末イベントの構想を彼から聞かされたときは、『冗談じゃないの?』みたく思ったりも、したものだけど。
彼は――本気らしい。
「じゃあ、行くね。
また明日。猪熊さん。」
あっ。
なにも言えないまま、羽田くんが遠ざかってしまう。
× × ×
「また明日」。
羽田くんの気くばりのコトバ。
わたしは、「また明日」に対し、なにも言えなかった……。
「また明日」というコトバをオウム返しするだけでも、よかったのに。
情けない。
情けないし、胸の奥が……少し、うずく。
× × ×
情けないという気持ちが、帰宅してからも尾を引いていた。
受験勉強に集中できない。
ボンヤリと、現代文の過去問を眺め続けてしまう。
手が動かない。
どうしよう。
× × ×
そろそろ、晩ごはんが出来上がる時間。
机の隅っこに過去問を追いやって、1年前に読んだ小説を読み返すことで、気を紛らしていた。
だれがどう見たって、現実逃避。
ノックの音がした。
こんな乱暴なノックをするのは、弟のヒバリ以外に居ない。
小説本を閉じる。
立ち上がって、ドアに向かう。
がちゃり、とドアを開ける。
それから、
「晩ごはん、出来たのね? 今、行くわ」
とヒバリに言う。
しかしヒバリは、
「――や、おれ、母さんからなんにも言われてないけど」
と。
もしや。
……早合点?
でも……晩ごはんが出来たことを知らせに来たのでないのなら、ヒバリはなぜ、わたしの部屋に……。
「おい、だいじょーぶか、姉ちゃん」
「よ……用件を、言ってちょうだい」
「借りてた本、返しに来た」
「えっ」
……よく見たら、ヒバリは左手で、本を掴んでいる。
学校祭で、3年のとあるクラスが古本市を開いていた。
今ヒバリが掴んでいる本は、その古本市でわたしが購入した本だ。
いわゆる「ヤングアダルト」の範疇(はんちゅう)の小説。
読み終えて、『あの子でも読めそう』だと思ったから、ヒバリに貸してあげていたのである。
「返すのがずいぶん遅くなっちゃったな。延滞、ってヤツか」
苦笑いで言うヒバリ。
「……その本をあなたが長くキープしてたのは、別に気にならないけど」
わたしは、
「そういう本の持ちかたをするのは、やめなさいよ」
と、注意。
「本が傷(いた)むわ。古本なんだから、丁寧に取り扱って」
「わーったよ」
本を差し出すヒバリ。
ほんとうにわかってるのかしら。
「にしても」
え……なによ、ヒバリ。
「姉ちゃんはマジ、本好きなんだな。そんなことで怒るなんて、さ」
「べ……べつに、そこまで読書家なわけじゃないから。ひと月の最高記録が、せいぜい10冊……」
「それ、すごくね!? 3日に1冊のペースで読んでたっつーことだろ?」
「……そうかしら」
「まるで、本に恋してるって勢いだな」
ななっ……!
「わ、わたし、本に恋してなんかないからっ。そ、そう、本は、恋愛対象にならないっ。登場人物も、著者も、恋愛対象になんかならないわよっ。わたしが、わたしが、恋愛対象だって認識してるのは、本の世界じゃなくて、もっと――」
「『もっと――』って、なに??」
う。
うううぅ。
窮地。
ヒバリに、返答できない。
「なーに顔面発熱してんだか」
「……」
「あ」
「ど、どうしたの、なにか重大なことに気づいたみたいに……」
次第にニヤけていく、わたしの可愛くない弟は、
「姉ちゃんの『お気持ち』、顔に出てるぜ」
と言ってくるから――、
突進せざるをえないのである。