8時15分に起床した。
マッコイ・タイナーというジャズピアニストのアルバムを再生する。お母さんに貰ったCDだ。
寝転びながら曲を聴き、時折寝返りを打っていると、
『亜弥ー、起きなさいよー』
という声が聞こえてくる。お母さんの声だ。
ドアを開けるやいなや、
「だらしないわね」
と言われてしまう。
「マッコイ・タイナー聴いてるのには感心するけど、朝からダラダラしてるのには感心しないわ」
……そうですか。
お母さんはさらに、
「あなたそろそろ髪切ったら? そんなに髪が長いと不都合なこともあるでしょ」
……ごもっとも。
「お母さん。それなら散髪代を――」
「出さないわよ」
「エッ」
「大学生になったんでしょ!? あなた」
「だ、だけど」
「とりあえず朝ごはん食べなさい、朝ごはん」
× × ×
美容院の予算をどこから捻出すればいいのか。厳しすぎる。
暗い気持ちで家の外に出た。暗い気持ちで道を歩いた。
気分が「晴れ」にならないまま、商店街へと辿り着いた。
美容院のことはいったん忘れたい。古本屋さんに向かいたい。最近、古書店で古本を買う楽しさに目覚めた。といっても、まだ3、4軒ぐらいしかお店を知らないんだけど。
古本屋さんに向かう途中で、とある自動販売機の前で立ち止まった。独特のたたずまいの自販機。売っている飲み物も独特。
……この自販機を見ると、どうしても羽田利比古くんを想起してしまう。
何故か?
昨年の冬……この自販機の前で、羽田くんとバッタリ出会ったことがあったから。
あのとき羽田くんは、川又ほのかさんという女子大学生と一緒だった。
やっぱり、つきあってるんだと思う。
羽田くんと川又さんは、交際している。
確信が強まるたびに、『付け入る隙なんて無いんだ』という気持ちも強まって、哀しくなる。
× × ×
夕飯前のダイニング・キッチン。
「ヒバリ」
わたしは弟の名前を呼んで、
「良いものをあげるわよ」
と言って、ソフトカバーの小説本を1冊ダイニングテーブルに置く。
「あげるって、本かよっ」
あいも変わらず攻撃的ね。
「イヤなの? せっかく無料で本をプレゼントしてあげるのに」
「めんどい」
面倒だという気持ちが籠もった声で言うヒバリ。
あのねー。
「ヒバリ? わたしはあなたのことを思って、この本をプレゼントするのよ?」
「ウザいこと言うなよ姉ちゃん」
「ばかっ」
「おいおい、バカって言った人間がバカになるんだぜ」
「……」
「なんだよそのウザい眼つきは」
「……非暴力主義って知ってるかしら」
「ハァ!?」
「わたしは非暴力主義だし」
それに、
「それに、大事に想ってる相手にしか、本のプレゼントはしない」
きょとーんとするヒバリに、さらに、
「まだ分からないの?? わたしの言ってることの意味が」
「意味が分かったらなんなんだよ」
「あなたはわたしに非暴力主義を放棄させたいの」
「……なんだか物騒だぞ、姉ちゃん」
「そうねえ! 物騒かもねえ」
「ピリピリしてんなぁ」
……もういいわよ。
わたしは椅子から立ち上がる。ヒバリにプレゼントするつもりだった本を回収して、ヒバリに背を向ける。
× × ×
大事に想ってる相手にしか、本のプレゼントはしない。それは本当だった。
素直になれないけど、弟のヒバリを大事に想ってる。
素直になれないけど、羽田利比古くんを大事に想ってる。
羽田くん。
……羽田くん。
羽田くん……あなた、忘れてないわよね?? 去年わたしがクリスマスプレゼントで英語の絵本を贈ったことを。
もっとも川又ほのかさんからは、英語の絵本以上にステキなクリスマスプレゼントを贈られたんだろうけど。