グレン・グールドの演奏が終わった。
ラジカセからCDを取り出し、棚に戻す。
日曜日の昼下がり。
猪熊家は平穏である。
弟のヒバリが部屋に乱入してくることもなく。
さて。
音楽を聴き終わったあとでなにをするか、考えどころ。
午前中ずっと受験勉強だったから、午後になってさらに勉強に手をつけるのは、オーバーワークかもしれない。
だとしたら、読書か。
勉強机の棚に立てかけられた文庫本の背表紙が見えている。
読んでもいいんだけど。
今読んでいるこの文庫本、面白くって、面白いがゆえに……読み進めるのがもったいないような気もしてくる。
面白いから、読み過ぎたくない。
先を進め過ぎたくないのだ。
…読書以外に、なにかするとしたら。
ベッドに身を委ね、仰向けになって考える。
無為に時間が過ぎていってしまうのも、どうなのか…。
ふと。
今週末、金曜日の終業式の日に予定されている『イベント』のことが、頭をよぎった。
『イベント』の主催者は……あの男子生徒。
× × ×
スマートフォンを持つ。
横向きに寝ながらスマホを操作する。
某LINE的なアプリケーションを開く。
いつの間にか登録されていた羽田利比古くんのアカウントページを開く。
…少しだけ息を吸ったあとで、メッセージを入力する。
『こんにちは。猪熊亜弥です。
今、いいですか? 羽田くん。』
すぐにメッセージが「既読」になり、返信が来る。
『OKだよ
今、ヒマだし
それにしても
わざわざ、名乗らなくってもいいのに、猪熊さんw
猪熊さんからのメッセージであることは分かってるんだからさww』
……この、『w』というのは。
たぶん、インターネットスラング的な記号であって……笑い、を表(あらわ)しているんだと思う。
なんだか、LINEでの羽田くんって、軽薄。
彼は続ける。
『用件、なにかなあ??
きみがLINEを使って連絡してくるって、比較的珍しいよね?w』
『比較的』、じゃないですよっ。
草みたいな文字まで生やして。
『…用件を、伝える前に。
羽田くん、あなたはきょう、なにをして過ごしていたんですか?』
『気になるの
ぼくの日曜の過ごしかたが、そんなにもww』
あのねえっ。
『えっとねー
さっきまでね
勉強会
勉強会、やってたんだよね~~』
…勉強会??
『勉強会って……なんですか。』
『ヤダなー。勉強会は勉強会だよー』
勉強会、ということは。
羽田くん、だれかといっしょに受験勉強を……。
羽田くんに関しては、男子の知り合いより、女子の知り合いのほうが、容易に思い浮かぶ。
……川又ほのかさん?
羽田くんと交際している疑惑が色濃い、新宿区の某名門大学に通っている、あの女子(ひと)と、お勉強を……?
『あの。
わたしの思い違いかも、しれませんが。
勉強会というのは……もしかしたら、先日お会いした、川又ほのかさんと……?』
送信してしまってから、「踏み込んで」しまったことに気づき、冷や汗が流れる。
しかし、わたしの「踏み込み」は意味を成すことなく、
『違うよ
きょうは、川又さんじゃなかった』
という、彼からの返信が。
……ちょっとまって。
『きょうは、川又さんじゃなかった』っていう文面……。
なにか、おかしくない?!
この文面から、読み取れるのは。
川又さんと勉強会をしている、という事実があって。
さらに。
川又さん以外の「だれか」とも、勉強会をしている……という。
そんな、情報。
そして。
おそらく、川又さんではない「だれか」も、川又さんと同じ……性別の。
『別の女子ふたりだよ
別の女子ふたりに、教えてもらったんだ』
わたしの予測は的中した。
…なにかに急き立てられるように、文字を打ち込む。
『そ、それは、やっぱり、年上のひと、ですかっ』
『ビンゴだよ猪熊さん☆
川又さんより1つ上 だからぼくらより2つ上
アカ子さんと、さやかさん っていうんだけど
アカ子さんは慶應で義塾な大学
さやかさんは赤い門で有名な国立大学』
な……なにその人脈。
おかしくない!?
羽田くんの、わけがわからない『勉強会』のせいで、
少しも、終業式の日の『イベント』のことにまで、話が及ばない……!!