ゴールデンウィーク前日の放課後。
ぼくは、放送部部長の猪熊さんとともに、旧校舎に来ていた。
KHKの活動拠点たる『第2放送室』のドアを開け、猪熊さんを招き入れる。
「これが『第2放送室』ですか」
「そうだよ」
「狭いし古いですね」
率直なご感想…どうも。
…なぜ猪熊さんをKHKに招いたのか。
それは、ぼくが制作中のKHK新番組のナレーションを、彼女に担当してもらうことになったからである。
小路さんの提案で、ジャンケン勝負に『勝った』ほうが、ぼくの番組のナレーションを担当してあげることになった。
そして、小路さんとのジャンケンに、猪熊さんは『勝って』しまったのだ。
「貧乏くじを引いた…とか、思ってる?」
そう言って、猪熊さんを気づかう。
「いいえ思っていません」
キッパリの猪熊さん。
それから彼女は、
「発声練習がしたいです」
と告げる。
「ああ、ナレーションするんだもんね」
「奥のスタジオに入ってもいいですか?」
「もちろん、かまわないよ」
「それでは……」と言い、猪熊さんは、スタジオのドアを開ける。
――猫が入ってきた。
可愛らしい子猫である。
ときどき、『第2放送室』に侵入してくるんだよな。この部屋、鍵がないから、
『きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!』
なにが起こったか――いっしゅん、分からなかった。
まず、猪熊さんの絶叫が――耳に届いて。
それから、
それからそれから、
猪熊さんに抱きつかれていることに気がついた。
「羽田くん……猫が……野良猫が……」
……もしや。
「猪熊さん、猫が、怖いの?」
しがみつかれたまま、訊いてみる。
そしたら、消え入りそうな声で、
「……こわいです」
という答えを返してくる。
依然として、身体(からだ)は接触したまま。
「――珍しいね。犬じゃなくて猫が、弱点なんて」
感触から、伝わる怯え。
猫から逃げたい一心なのか、ぼくの胸に顔を埋めてくる勢い。
エマージェンシーだな。
エマージェンシーだ……いろんな意味で。
……ひとまず。
「猪熊さん。猫、出口に近づいてる。もうすぐ、廊下に出ていくはずだよ」
「ホントですか……?? 嘘、ついてないですか?!」
「嘘なんか、つかないさ」
猫が廊下に出たのを、確認してから、
「もう大丈夫。猫は消えたよ。怖がらないでいい。落ち着いて」
「……」
「そろそろ、身体、離そうよ」
「……!!」
じぶんのしていることを、ようやく自覚した……といった感じで、やっと、身を離す。
これで、彼女の締め付けから、解放されたわけだ。
強く抱きしめられたので、両腕がまだ痛い。
猪熊さんを見ると、彼女は、あえぎにあえいでいる。
これは…ナレーションや発声練習どころでは、なくなってきたな……。
「…どうして、猫に対して、ここまで拒絶反応があるの?」
ぼくは言った。
言ってから、少し後悔した。
彼女のあえぎが、まだ収まっていなかったからだ。
小さい頃、猫に噛まれた……とか、なのかな。
胸の中心に右手を当てる彼女。
大げさなくらいの、深呼吸。
立ち直っていく感じはあったけれど、顔の赤みは消せていなかった。
「……ごめんなさい」
「いいんだよ」
「いいわけないです。何度でも謝ります、わたし」
「…気にしてないよ」
「わたしが気にするんですっ!!」
絶叫。
「どうして混乱してないんですか、羽田くんは!? もっと混乱したり動揺したりが、ふつうでしょう!? わたし、わたし……前代未聞なことを……羽田くんにしてしまったんですよ」
「…どうしてかな」
これ以上ないほどの、うろたえ顔で、
「ひ……秘密に。秘密に……してください」
と要求する、猪熊さん。
『なにを』秘密にしてほしいのかは、火を見るより明らかだ。
――さて。
「事後処理」は、続きそうだが……どうするか。