目覚めた。
ゆっくりと起き上がる。
きのう、麻井がお菓子を大量に食べ散らかしていった部屋。
今朝は、静かだ。
平穏で、なにより。
麻井――。
利比古くんとのことを突っつかれたからって、あんなにテンパらなくてもよかったのに。
――でも、かわいかったな。
時計を見る。
午前9時をまわっている。
遅起きだ、私。
大学生になったからって。
土曜の朝だからって。
だらしないぞ、私。
…無難に着替えた。
「きょうは、なにをしようかな」
夏休みだから、余計に困る。
勉強――でも、いいんだけど、
勉強だけじゃ――味気ないし。
× × ×
FMラジオ番組が、洋楽を流している。
お母さんがそのメロディに乗って、鼻歌を歌う。
「知ってるのこの曲? お母さん」
遅めの朝食を食べつつ、訊く。
キッチンで作業をしながらお母さんは、
「知ってる♫ 懐メロだから♫」
「…ふーん」
「歌詞はわかんないけど♪」
「えっ」
「わたし英語音痴だから♪」
「…そうなの」
ラジオが交通情報に切り替わるなか、
「しぐちゃん、律(り)っちゃんは、いつまで東京(こっち)にいるのかしら?」
不意にお母さんが尋ねてくる。
「えっ、知らない」
麻井がいつまで帰省なのかを聞いていないので、素直に「知らない」と答える。
「また、家に来てほしいけれど♪」
「お母さんは……麻井大好きだね」
「あたりまえじゃないの♫」
「あはは……」
「律っちゃんは、しぐちゃんといちばんなかよしさんなんだし♫」
「……腐れ縁だよ」
「そんなこと言っちゃあダメよっ♬」
……非常に、甘く、優しく、たしなめられてしまった。
「しぐちゃんも素直になれないわね♬」
まだ、たしなめている……らしい。
「しぐちゃんと律っちゃんが――ふたりそろって、なかよしでいるところを見るのが、幸せなのよ、わたし♪」
「――だから、また麻井に、来てほしい?」
「誘ってよ~、しぐちゃん♪」
「――私の役目か。」
「しぐちゃん以外のだれの役目でもないじゃないの♪♪」
甘~くお母さんは言う。
「今度はわたし、美味しいごはんを、律っちゃんのために作ってあげるの♫」
張り切ってるなー。
……。
美味しいごはん……か。
思い切って、
「ねぇ、お母さん」
「な~に、頼みごと?」
「頼みごと……というか、なんというか」
「なによ~~♬♬」
「あとで、さ。
お昼ごはんの支度するころに、なったら……、
私に、手伝わせてよ」
娘の思わぬ申し出に、一瞬だけ眼を見張るお母さん。
しかし、すぐにニコニコ笑顔になって、
「――お料理、したいの?」
「したいの。
料理、教えてほしいの、私に」
「あら~~~♫♫」
…心からうれしそうな顔だ。
娘の成長を喜び、祝う――そんな感じの笑顔。
私は料理をしない。
というより、できない。
半年ぐらい前、共通試験で失敗して落ち込んでたとき、愛さんの邸(いえ)で、愛さんがお菓子を作るのを、見よう見まねで手伝ったことはあるけど――それぐらい。
基本的に、お母さんに、任せっきりだった。
でも、大学生になって、夏休みに入って、せっかくだから――新しいチャレンジをしてみたいと思ったんだ。
変化がないと、味気ないから。
「…お料理する気になった、理由は?」
「……大学デビュー。」
「あら、そうなの~~♫」
なにをもって「あら、そうなの~~♫」と言っているのか、お母さんの心の内はわからないが、
「朝起きたとき……決めてた。きょうは、お母さんに、料理教えてもらうんだ、って」
と、素直に私は伝えるのだった。
× × ×
「――こうすると、お肉が柔らかくなるのよ♪」
「――なるほど」
「――しぐちゃん、眼が真剣♫」
「真剣にも――なるよ」
「そんなに張り切ってるの??
お料理作ってあげたい男の子でも、デキたの??」
「おかあさんっっ」
「悲鳴あげなくたって、いいじゃないの~~♪」
「あげちゃうよっ、悲鳴!」
「――ダレなの?」
「い、『いる』前提っ!?!?」
「だって♪
大学に入ったのなら、気になる男の子の、ひとりやふたりぐらい――」
「だだだ大学をなんだと思ってるのっ、お母さんはっ」
「――出会いの場♫」
「んんん……」
たしかに……出会いの場では、あるけれど、あるけれどもっ。
「なんで、なんですぐに異性のことに結びつけたがるかなぁ?」
「ふふふふっ♫」
「……お母さんの、エッチ。」
私の反抗にも動じず……満面の笑顔を絶やさないお母さんは、
「――そういえば、さ♪」
「なに!? なんなの、まだなにかあるの」
「篠崎くん。
篠崎くんは――元気してるのかしら♪♪」
!?
「知らない、しぐちゃん? 篠崎くんの近況とか――」
「い、いや、ま、まず、まずですね、おかーさん」
お母さんの左肩に右手をあてて、
懸命に息を整えつつ、
「私、篠崎くんのことなんか、そんなに、お母さんに、話してないでしょう」
そんなに彼についてベラベラしゃべった憶えなんか――ないよ。
しかし……無惨にも、あっけらかんとお母さんは、
「――お母さんは、なんでも知ってるのよん♫」
……と、ある種の常套句を。
おそるおそる、
「……どこまで??
もしかして、東大落っこちて、早稲田に進学したってことも……」
ルンルンに、うなずく、眼の前のお母さん――。
ありえない。
ひとことで、ありえない。
「――そ、そうだっ、
もっと、もっとお肉、柔らかくしようよっ、お母さん」
「焦らない焦らない、しぐちゃん♬」
「そっそんなのってっ、」
「お料理は、待ってくれる。
でも――男の子の話は、待ってくれない♫♫」
…左肩を握る手のちからを強くしようと思って、
逆に、ちからが抜ける。
お母さんの『篠崎くん攻撃』に、
ヘトヘトになって、
思わず……そばの椅子に、座り込む。
ずっと立っていられる体力には……自信あったのに。
もはや、そういう問題領域では、なくって……。