目が覚めた。
身体(からだ)を起こし、カレンダーを見る。
今日で、10月も最終日だ。
今年も、あと2ヶ月しかない。
あっという間。
家出した麻井が、甲斐田家に泊まりに来たのが、8月上旬。
もう3ヶ月近く前なのか。
この部屋で、一夜を過ごした麻井。
最初はベッドの隣に布団を敷いて寝ていたのに、「眠れない」って言い出して、深夜、ベッドに入り込んできた。
つまり、添い寝状態。
私のベッドに入ってくるや否や、スヤスヤ眠り出して。
子守りをしてるみたいだった。
お母さん役が私。
もっとも…お母さんになったことがないから、娘をあやす感覚なんて、全然わからないんだけど。
中学時代から、麻井の体格はまったく変わっていない。
私は――少しだけ背が伸びた。
2学期始めに身体測定があって、身長を測ったが、何cmだったかもう忘れてしまった。
高3だし、この期に及んで、大きく伸びるなんてことはない。
きっと、167か168ってところだろう。
身長順に並ぶと、いつもクラスの後ろのほうだ。
逆に麻井は、いつだって、前。
というか、列の先頭になる可能性が高い。
あいつのクラスであいつより背が低い女子はいなかったはずだ。
それぐらい麻井は小柄。
私より、20何センチ低いやら。
× × ×
そんな麻井が、恋をした。
もう、確定なんだと思う。
否定したって無駄だ。
否定したって無駄だ……とは、本人がいちばん思ってるのかもしれない。
恋心。
恋心の向かう先が――まさか、2つ後輩の男子だなんてね。
寝耳に水だったよ。
私が気になるのは、
麻井に残された時間。
あと数ヶ月で、麻井も私も桐原高校を卒業する。
麻井が、利比古くんと、一緒の空間に居られるのも、あとわずか。
残りわずかの時間で――利比古くんと、どう向き合うつもりなの?
麻井。
麻井が、恋をした。
初めての恋ではない恋をした。
腐れ縁だから、私は麻井の初恋を知っている。
そして、麻井は私の初恋を知っている。
× × ×
ゴルフバッグを持ってお父さんが家を出た。
たまには自分の部屋とは違うところで――と思い、ダイニングテーブルで参考書や問題集、ノートを広げる。
理系科目と違って、問題集の問題がスラスラと解ける。
昨日の放課後みたいに、篠崎くんに数学の解法を教えられてしまうような、くやしい思いをしなくて済む。
ちなみに私は国語より英語が得意だ。
お母さんは、ラジオを聴きながら台所を綺麗にしている。
天気予報が東京の晴天を伝えている。
天気予報に語りかけるかのように、
「ほーんと、いい天気よねー♫」
と明るく言うお母さん。
ルンルンになって食器を拭いている。
平常運転だな……と思いつつお母さんの背中を眺めていると、
「日なたぼっこしたくならない? しぐちゃんも」
と訊かれた。
「そんな余裕ないって」
「そっか♫」
それからお母さんはラジオから流れる音楽に合わせて、ハミング。
ずいぶん適当な鼻歌だこと。
でも…何故か、その鼻歌のリズムに合わせて英語の長文を読んでいると、するすると構文が頭に入ってくる。
摩訶不思議だ。
「…ねえ、お母さん」
「~♫」
「お母さんは……高校時代、どの教科が得意だったの」
「国語♪」
「国語の、どれ?」
「古文~♪」
「へぇ……。」
「源氏物語とか♫」
「私は……古文だと、源氏物語みたいな文章が、いちばん苦手だよ。言葉の意味が違うし。敬語がややこしいし」
「得意というよりも……純粋に、好きだった♫」
「源氏が!?」
「しぐちゃん――」
「ん…」
「古文はハートだよ。読解うんぬんじゃないのよ」
「え、ええっ」
そんなこと言ったって。
「だって――文学でしょう?」
「文学なのは当たり前だよ。でも時代違うし。平安時代だし。理解しようったってなかなかできないよ」
「――登場人物の恋心を読むのよ♪」
お母さんはいつの間にか食器を拭き終えていて、流しを背にして、あっけにとられる私のほうに向いている。
「ふふん♪♪」
「――こっ恋心読むとか、そんなこと出来たら苦労しないって」
「しぐちゃんは鈍感なんだ♫」
「びっ、敏感だったら、古文の成績上がるわけでもなし」
「成績がぜんぶじゃないでしょ♬」
「わかってるけど、わかってるけど…さ」
FMラジオのパーソナリティが、こんな朝っぱらからリスナーの甘酸っぱいお手紙を読み上げている。
ダイニングに持ち込んだ古文の参考書を読むモチベーションが完全に失(う)せる…。
ニコニコとお母さんは、
「あんまりしぐちゃんが鈍感すぎるのも――お母さん心配かな♬」
嫌な予感がする。
「――なにいいたいの」
「だって――」
嫌な予感、倍増。
「気になる男の子とか――いないんでしょ? いま」
「――『いない』っていう事実が、お母さんの前提なんだね」
繕(つくろ)う、感情。
「『いた』としたら、はっきりわかるんだもん♫」
う……。
「母親にはなんでもわかっちゃうんだよ♫ しぐちゃんのことなら、な~んでも♫♫」
……忘れたい過去を、私は思い出しかかっている。
× × ×
中学2年のとき。
私と麻井は、生まれて初めて恋をした。
お母さんに気付かれるのが、私は怖かった。
初めての経験だったから。
でも……娘の微妙な様子の変化に、母親はあっさりと気付くものである。
× × ×
もしかしたら、『あのとき』も、土曜の朝だったかもしれない。
お父さんがその場に居合わせた記憶がない。
そのころ私はほんのちょっとだけ反抗期で、些細なことに腹を立てていたりした。
その日の朝。遅く起きて朝食を食べようとしたら、お皿に目玉焼きではなくスクランブルエッグが乗っていた。
「半熟の目玉焼きがいいって言ってたじゃん! お母さんっ」
不満を漏らす私だったが、お母さんは「ごめんごめん♪」とあくまでマイペースだった。
「ごちそうさまっ」
ほとんど朝食に手をつけないまま私は席を立った。
あらあら……♬ と、手をつけずじまいのお皿に眼を落とすお母さん。
と思ったら、うふふ♪ と微笑んでいるのだ。
意味がわからなかったから、
「なにがおかしいってゆーのっ!」
って、お母さんの微笑み顔をまともに見て、怒ってしまった。
けれど、
お母さんはピリピリしてる私の身体にゆっくりと近づき、左肩にそっと優しく手を置いたかと思うと、
「……おめでとう♫」
「え……?」
一瞬、なんで『おめでとう♫』なのか、見当もつかなかった。
でも、お母さんの意図が……次第にわかり始めてきたから、怯(おび)えるような感情が、芽生えてきた。
お母さんが、つぎになにを言ってくるか、簡単に想像できて、怖かった。
「好きな男の子が……できたんだね。初めてでしょ♫」
ぶんぶん首を振ったけど、無駄なあがきだった。
ひとを想うのも初めてだったけれど、
同時に、想いを気付かれるのも、初めてで。
その、初めて、は、やっぱり――自分のお母さんだった。
それから、お互い椅子に腰掛けて、お母さんのアドバイスを、私はひたすら聴いていた記憶がある。
そのあと、お母さんに対して素直になって、反抗することも減っていったと思う。
× × ×
それにしても――朝食に手をつけなかっただけで、私の異変に気付くなんて、ね。
果ては、初めて恋をしてる気持ちまでも。
母親のインスピレーションは……無限だ。
× × ×
シャープペンを持つ手が、ぜんぜん動いていなかった。
「手が止まっちゃったねえ♪」
たぶん、私が勉強そっちのけで回想モードに入っていたのも、100パーセントお見通しだろう。
「もういいや、朝勉強は」
「もういいの?」
「いいの、もう」
すっく、と私は立ち上がる。
「洗濯物、干すんでしょ? 手伝うよ」
お母さんは愛らしく微笑んで、
「しぐちゃんは立派ね♪」
「…お母さんの、おかげでね。」
「あらあら~~♪♪」
「……そんなに、喜ばなくったって」