ロシア語の講義で、『リュボーフィ』という単語を習った。
意味は――『愛』。
「はい、これが生きていくうえで、いちばん大切な言葉ですよ、皆さん!!」
――中里先生が、こうおっしゃられた。
わたしたちのロシア語講義を受け持っている中里先生は、美しい女の先生である。
今、教壇から、はつらつと、『愛』の重要性を強調している、中里先生。
教室の左の列いちばん前に座っているわたし。
中里先生と、眼が合った。
というより、先生のほうが、わたしに顔を向けているのか――。
「羽田さん」
「…はい」
「あなたの名前と、おんなじね」
「そうですね」
アイ・アム・愛、である。
(これはロシア語ではなく英語だが)
「『愛』……。
ほんとうに、ステキな名前……」
……そうでしょうか?
× × ×
キャンパスのベンチに座って、生協で買ったコーヒーを飲みながら、本を読んでいると、
「あら! 羽田さん」
通りがかった中里先生が、わたしに気づいた。
「中里先生、こんにちは」
「こんにちは。――読書中?」
「はい、そうです」
「読書に余念がないわね。さすがね」
「でしょうか……」
最初の講義のときまで、話は遡(さかのぼ)る。
自己紹介をしたのだ。
自分の番が回ってきたわたしは――、
『羽田愛です。
特技は、お菓子作りと、ピアノ――。
もちろん、本を読むのも好きで、
ロシア文学も大好きだったので、ロシア語を選びました。
で、好きなロシア文学の作家は、
ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、プーシキン、ゴーゴリ、ゴーリキー、チェーホフ、ブルガーコフ、
……有名どころばっかりですけど、この辺りですね』
そう話したら、
教壇の中里先生が、驚いたみたいに、口をあんぐりと開けていた。
なんだか、教室も静まり返ってるような……。
どうしてだろう、とわたしがいちばん困っていると、
中里先生がわたしに向かって、
『羽田さん……。
あなた、何者?』
「――あなたみたいにロシア文学をよく読んでいる子は、案外少ないのよ」
「第一文学部、なのに?」
「みんながみんな文学を志(こころざ)して入ってくるわけじゃないから」
「わたし、哲学専攻ですけど……」
「そうであっても、あなたはまさしく文学少女」
「……そう思います?」
「自己紹介の時点でわかったわよ~。驚いたし、感動もした」
感動…されちゃったか。
「ね、羽田さん。わたしが仲良くしてる出版社から、ロシアの現代作家の本邦初訳が出たんだけど」
どこからともなく、本を見せてくる先生。
「せっかくだから、あなたにあげちゃおうかな~、って」
「え……この本を……わたしに!? でも、たぶん、お値段高いんでしょう……」
「『初期投資』」
「??」
「ごめんごめん、今のは忘れて」
「……」
「受け取ってちょうだいよ。遠慮しないで」
「……では。」
風のように中里先生は去っていった。
わたしに、特別な期待をかけているような……そんな感じだった。
× × ×
勉強机の上に、中里先生からプレゼントされた本を置いた。
こういうのは――早めに読んでおいたほうが、いいのよね。
『どうだった?』っていずれ、先生に感想を訊かれるのは、目に見えてるし。
どのタイミングで読み始めようかしら…と考えていたら、
部屋をノックする音。
この音は――アツマくんで間違いない。
「借りてた本を返しに来たぞ」
「――どうだった?」
「面白かった」
「――便利な言葉ね。便利だけど、なにも物語っていない」
「……」
「――貸してから3日で読み終わったのは、ホメてあげる」
「……」
「でも、まともな感想を、アツマくんは言えない。
感想を言えなかった、ペナルティとして……、
1時間、わたしの部屋で過ごしてちょーだい」
「……は?」
× × ×
半ば強引にアツマくんを連れ込んだ。
わたしの部屋にアツマくんが来る頻度が下がってたから。
双方、床座り。
小さめのテーブルをはさんで、向かい合い。
「…訊きたいことがあるのよ」
「なんだよ」
「あのね…」
「『あのね…』じゃ、わかんねえ」
「急(せ)かさないで。イエローカード出すわよ」
「いやイエローカードってなんだよ」
「うるさい! 聴いて!」
「…ったく、なにをおれに訊きたいのか」
「わたしの――名前のこと。」
「?」
「アツマくん、ありのままに答えてね。わたしの、『愛』っていう名前、どう思う?」
うろたえ加減の彼。
答えてくれなきゃ、こっちも困るんだけど。
「どうって……言われたって、なぁ」
「わたし自身の意見としては。
女の子の名前として、『愛』ってフツーすぎるよね、って思うこともあるし。
日常的に頻繁に眼にするワードだから――、たとえば、本を読むときとか、『愛』っていう文字がたくさんページにあると、なんだかなぁ……って思ってしまうこともある」
「『愛』、って名前の人間の宿命だよな」
「アツマくんにしては、うまいこと言うわね。
――それで、あなたの意見は?
『愛』っていうわたしの名前に対する、素直な印象を――言って」
シンキングタイムに突入するアツマくん。
たしかに……即答できるようなことでもない。
だけど……彼には、ぜひとも答えてほしい。
……やがて、彼は、覚悟したように口を開いて、
「おまえの言うとおり、『愛』は、ありふれた言葉で、ありふれた名前かもしれんが。
おれは……好きだぞ。
なんでかっていうと、だな、
おれ個人の、印象だけど……。
『愛』っていう名前は、素朴で、なんだか安心できる感じがする」
素朴、とか。
安心できる、とか。
わたしの名前に、そういう印象が……あったなんて。
「……変な印象かな?」
「ううん……変じゃないと……思うよ」
「なら、よかった」
「……」
「どうしたか。顔の温度が、上がってないか?」
「…………。
わたし、からも、アツマくん、の、『アツマ』って、名前に、対して、思ってる、ことを、」
「なぜに、ロボットみたいに言葉を区切るのか」
恥ずかしいからよっ。
すーーっと、深呼吸して、
「あなたの、『アツマ』って名前だけど。
優しい感じがして。
ぽかぽかと、あったまるというか――、
とにかく、あったかさが感じられて。
いい名前だと思う――。
好き。」
「――そっか。」
「うれしい?」
「うれしくなくは……ない」
「もっと、うれしそうにしてほしいけど」
「……悪かったな」
もう、わたしは、向かい合うのをやめて、アツマくんのすぐ隣に、身体(からだ)を寄せている。
「――こうやって近づいてると、アツマくんがあったかいんだって、わかるわ」
「……悪かったな」
「悪くなんかないに決まってるじゃないのっ」
「……そりゃどうも」
「つれないわね……」
ぽふ、と、アツマくんに、背中から身体をくっつける。
「スキンシップ、ご苦労さま」
「愛情表現」
「あっそ」
「愛情表現!!」
「はいはい」
「わかんないの!? 愛情表現だって」
「わかんない、の、逆」
「…じゃあ、愛情には愛情で、応えてよ」
――わたしを背中から抱きかかえる、彼。
「……大変よろしい。」
「よろしくて、よろしかった」
「……変な言い回し。」
わたしは笑って、そうつぶやく。
彼の優しさ、彼のあったかさに、包まれる。
アツマくんの、名前も好き。
アツマくんも、好き。
好き、じゃ足りないぐらいに……好き。