きのうアツマくんが元気づけて、勇気づけてくれたから、きょう学校ではルンルン気分だった。
放課後、「部活……行きましょう?」と、率先して伊吹先生を促したら、
「なんかいいことでもあった?」と訊かれたので、
「はい、ありました」
「正直だね。元気そうでよかったよかった」
「わかりますか?」
「声の明るさ、でね」
いつものように、二人して並んで廊下を歩いた。
「持ち直したみたいだねー、羽田さん」
「先週の金曜はご迷惑をおかけしました」
「いいんだよ」
伊吹先生は笑い声で、
「羽田さんにーーアツマくんがいてくれて、よかったよ」
その、含みのある言葉に、胸の鼓動が少し速くなったが、負けずに、
「はいそうですよ。アツマくんのおかげですね」
そして、きのうのアツマくんの発言を想い起こして、
「アツマくんが、カルヴィーノの『見えない都市』を筆写してくれたんです」
「筆写? またなんで」
「彼との約束なので。」
「へ~~~~~~~~」
伊吹先生が、からかい上手なほうであることを、確信した。
図書館の至近までわたしたちは来たが、
「ねえカルヴィーノって、イタリア文学よね」と先生が言ってきたので、
「勿論そうですよ」と答えると、
「そっかー。あたしの大学、イタリア語やスペイン語の講座はあったんだけど、イタリア文学やラテンアメリカ文学の専攻がなくって、読まずじまいだった」
「今も…ですか?」
わたしたちは図書館にすでに入っている。
「今も」
現代文教師としてそれはどうなのか、と思う気持ちもあって、
「読まずじまいはもったいなくないですか? 翻訳でたくさん読めるし、ダンナさんにーー」
「それより羽田さん、きょうは書棚の整理手伝ってよ」
無茶振りだなあ。
「はいはいわかりましたよっ」
「ツンデレ~~」
「やかましいですね……」
× × ×
「奥のほうの棚を、手伝ってほしいんだけど」
「海外文学のところ、やっていいですか」
「お願いするよ」
けっこう、書棚の配列は、乱されているものだ。
分類記号通りには、到底なっていないぐらい。
「この本、なんでイタリア文学なのにドイツ文学のところにあるんだろ。良識を疑う」
「羽田さん、言いすぎ言いすぎ」
伊吹先生にたしなめられる一方、そのイタリア文学の列に本来は収められるべき本を、わたしは開いてパラパラめくってみた。
すると、ビックリしたことに、本に何やらメモ書きのようなものが、挟まっているではないか。
メモ書きの紙は、だいぶ色あせている。
こんなメッセージが、書かれてある。
『この本にたどり着いた貴女、偉いです』
「こら羽田さん、油売らないの」
「先生……この紙に何やらメッセージが書いてあります」
先生に紙を見せると、
「あれ、これーーもしかして」
先生がとっても意味深なセリフをつぶやいたが、わたしは、ロシア文学の棚に明らかにラテンアメリカ圏の著者の作品が紛れ込んでいるのを見とがめて、
と憤りを発して、やはりそのラテンアメリカ小説を開いてパラパラめくってみると、
なんとーーこの本にも、さっきと同じようなメモ書きが、挟んであった!
『良い本にたどり着きましたね、貴女』
伊吹先生が、わたしが本とメモ書きを持っているところをのぞき込んできて、
「やっぱりーー」
「やっぱり、?」
「ナオコ先輩のしわざだ」
「だれですか!??!」
「あたしの高校時代のひとつ先輩」
「どうしてわかるんですか……」
「ナオコ先輩は社交的でなくて図書館にこもりがちだったの。でも文学少女でとくに海外の20世紀文学が好きで、ほらそういう女の子ってどの学校でもレアキャラでしょ?」
「わたしは20世紀文学のことよくわからないので、ナオコさんってわたしよりも文学少女だったんですね」
「ずいぶん謙遜するね…まいいや、とにかくあたしはナオコ先輩の陰ながらのファンだったの」
ふいに、伊吹先生が遠い目になって、
「いま、どうしているんだろう、先輩……」
先生がそんな表情になったのを初めて目にしたので、わたしは思わずドキッとしてしまった。
「仲、良かったんじゃないんですか?」
「そんなには」
「え、でもさっき、」
「『陰ながらのファン』だったから。うかつに声もかけられなくて」
「シャイだったんですか? もしかして高校時代の伊吹先生って」
「もー、『シャイ』なんて、ゆとり世代も使わないよぉ、そんな言葉」
「……今とさして違いなかったんですね。」
「う~ん、あえて言うなら、素行不良だったかな?」
話がそれていっている気がするが、
「理数系の授業をサボって先生ににらまれてたんでしたっけ」
「あー、そんなこといったっけ」
「いいましたね」
先生は何かを思い出したらしく、
「そだそだ。あたしが数学の授業抜け出したときに、図書館の脇を歩いてると、窓からナオコ先輩が、読書してる姿が見えて、さ」
そして、目を細め、
「そのときナオコ先輩が座っていた席が、ちょうどここらへんだったんだ」
つまり、図書館の奥まったところ、いまわたしと先生のいる、海外文学の棚のすぐ近くにある席だ。
「こういう棚見てると思うよ……」
「どんなことをですか?」
「『ああ、こんな本は、ナオコ先輩しか読んでなかっただろうな』って」
「わたしだって少しは読んでますって。作品や著者の名前だけ知ってるのも多いですけど」
「またそうやって謙遜するぅ。あのね、羽田さんは別格」
「別格とか、そんな…」
わたしは反論するように、
「葉山先輩だったらわたしより良く知ってます。それこそカルヴィーノだったりボルヘスだったり。いいえ…彼女にとっては、葉山先輩にとっては、そんなメジャーどころ、氷山の一角なのかな。ともかく別格、って言葉は葉山先輩にふさわしいとわたしは思いますよ」
いきなり葉山先輩を引き合いに出したのがまずかったのか? 先生は思案するような顔になり、
「………むつみちゃん?」
ど、どうして葉山先輩が『むつみちゃん』呼びなのかな。
たしかに先生にとっては教え子だけど。
「むつみちゃん、どうしてるのかな、いま」
「葉山先輩は元気してますよ。週に3回わたしから電話するんです」
先生は苦笑いみたく、
「手がかからないようで、手がかかる娘だったな~、彼女は」
「先生もそういう印象だったんですか……」
「わたし、ビンタされたことあるし」
「え、先生が、先輩に!?」
「あなたならわかるでしょ? 凶暴だったし彼女。あなたのおかげでずいぶん丸くなれたみたいだけど」
わたしは焦り気味に、
「く、暗い話題は、やめましょうか、」
すると先生は、
「教師も大変だよ。」
と、またもや意味深なことばを発した。
「もしかして、葉山先輩に、いい印象持っていないとか」
生徒にビンタされるってことは。
「そんなことないない。手がかかる娘だったから、むしろかわいかった」
かわいかった、ねぇ……。
ひとつだけ、伊吹先生に、葉山先輩に関して付け加えておきたくて、
「葉山先輩が、いま、なにしてるか、気になりますか?」
「当然よ。だってむつみちゃん進学しなかったでしょ。というか、進学の意志がなかったってほうが、正しいか」
「葉山先輩はですね……」
わたしは間をもたせて、
「葉山先輩は、恋をしてます。」
さすがの伊吹先生も、声も出ないみたい。
わたしは、『ナオコ先輩』のメモ書きを見返しながら、ニヤリと笑っていた。
ーーこの学校には、いろんな先輩がいるものだ。