金曜に学校から帰ってきたあたりから、愛が、少しだけ元気がないような気がしている。
土曜日曜と、部屋からあまり出てこなかったからな。
塞ぎ込んでるみたいだ。
なにがあったというのか。
× × ×
夕方。
かなり早い時間帯に、愛は帰ってきた。
気になって、
「部活はどうしたんだ。文芸部だっけーー文芸部の部長になったんだったよな」と声をかけた。
「なったけど、きょうは休ませてもらった」
かなり低いトーンで愛は答えた。
おれは、愛の髪がかなり濡れていることに気がついた。
「傘、ささなかったのかよ、髪がエラいことになっちまってるぞ」
「さしたよ、傘。でも雨が強すぎて…」
「なら早く乾かせ。おまえただでさえ髪が長いんだから。ぐしゃぐしゃになっちまうぞ」
心配になってきたおれは「タオル持ってきてやる」と腰を上げてタオルを探しに行こうとした、
が、
「そこまでしてくれなくてもいいよ、じぶんでなんとかするよ」
愛は目を伏せてそう言うと、逃げるようにして自分の部屋へと去っていった。
ーー『じぶんでなんとかできる』ってあいつが言ったときは、
『じぶんだけじゃなんとかできない』というサインが出ているのだ。
もう、おれにはわかりきってる。
あいつだってわかってるはずだ、
抱えてる気持ちと、反対のことを言ってしまう、じぶんにーー。
× × ×
おれは一応タオルを持って、愛の部屋をノックした。
『……まさか、わたしの髪を乾かしにきたんじゃないでしょうね』
無理をしている声で、愛はつっぱねる。
そして、
『今から制服着替えるから』
いくぶん早口で、おれを牽制しようとする。
「ドライヤーでも、そんなにすぐ乾かないんじゃないのか? おまえの髪の量だと」
おれが疑問を投げると、
『バカ』
バカとはなんだ。
「バカとはなんだバカとは」
『と、とにかく、制服も濡れてる、着替えないと』
「バカって言ったやつがバカなんだぞ」
『ちょっと黙ってよアツマくん、濡れてるから、脱いだり着たりするのにいつもより時間かかるから』
ドアの前から離れてーー、とは、愛は言わなかった。
少しだけ、愛の部屋から距離をとって、床に腰を下ろした。
エロいことは考えないよう、努力しつつ、黙り込んで、愛を待つ。
『バカって言ったやつがバカ…ほんとかもね。わたし、バカなのかも』
愛がついに自虐に走った。
『頭悪いから、学年3位にとどまっちゃったのかも』
は!?
学年3位?????
「ちょっと待てよ」
『…………』
「あ、着替える手は止めなくていいからな」
『…………スケベ』
「スケベと言われて結構。
だがな、
頭が悪かったら、どうやったって学年3位の成績は取れんだろーがよ」
反応、なし。
「……そんなに、1位にこだわる必要、あんのか?」
『別にこだわってない。でも、1位になる、っていう具体的な目標を作らないと、がんばれないから』
今度は反応があった。
「おまえが負けず嫌いなのは、わかってるけどさ」
『そうよ。わたし負けず嫌いなの。悔しいの。結果に対しても悔しいし、結果を出し切れなかったじぶんの努力不足も後悔してるの』
「だからって後悔引きずんなよ」
『そのつもりよっ、へこたれないっ。負けず嫌いなんだから』
やれやれ、という気分になっておれは、
「そのわりには、へこたれてんなあ、声が」
何やら、物音がしたあとで、いったん愛の部屋が静まったと思ったら、
『やっぱりわかるの……アツマくん』
振り絞るような声が、返ってきた。
定番のフレーズの、変化形である。
『アツマくん、入ってきていいよ、わたしの部屋』
「OK。タオル持ってきたから使えよ」
『まだ着替えてるけど』
おれはあわてて二の足を踏んだ。
「あ、あのな、着替えてる最中なら『入ってきて』とか言うな!」
『いいでしょ…あとキャミソールの上に2枚着るだけだし』
はあああああ!??!?!?!
『タオルもちょうどほしかったし』
「なにを…かんがえてんだ…おまえ? じぶんが服を着てるとこ……見せたいのか?? きゃ、キャミソールって、おい、」
『見られても気にしないよ、あなたになら』
「お・れ・が・気にするだろ!!!!!! フザけたことほざいてないで早く上着着ろや!!!!!!
バカ!!」
× × ×
「アツマくん、バカって言いすぎ」
床にぺたん、と座って、ブラシで長髪を整えながら、愛が不満を漏らす。
救いなのは、顔色が、帰ってきたときより、だいぶ良化していることだ。
おれは伏し目がちに、
「なあ…女子ってのは……そういう……着替える、ところを、見られるのって、恥ずかしいもんじゃないのか……?」
「流さんに見られたときは恥ずかしかった」
こ、こいつなに言ってんだ!?
「ほら、大昔にあったでしょ? アツマくんにも見られたこと」
思い出したくない。
「そのときは、アツマくんにも見られたくなかったから、わたし怒ったけど」
「……いまは、違うってか」
「違う。」
きっぱり言うなよ。
こっちが顔赤くなるよ。
「あーでも下着見られるのはマズいかなー」
「いや、キャミソールだって下着に入るだろ」
「キャミソールの下よ」
わかった!! わかったから!! もうこの話題やめようよ愛さん!!!
「あのさ、ところで」
ブラシをテーブルに置いて、「ところで?」と愛が少し身を乗り出す。
「もう半年くらい前だけどーーイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』を筆写する、っておれがおまえに『宣言』しただろ?」
「うん、忘れてないよわたし」
「あれさ、実は、やり終わったんだよ、筆写」
途端に、星のように眼を輝かせて、愛がよろこび始めた。
「ほんとに!?
ほんとにほんと!?!?
有言実行だね、アツマくんは!!
ありがとう、すごいよアツマくんは!!
わたしからの無理難題みたいなものだったのに、ほんとに全部、書き写しちゃうなんて、カルヴィーノを!!!!!!」
「ーー疲れたけどな、手。
証拠ならあるから、あとでおまえに見せてやるよ」
「ありがと。
なんだか、気分がよくなってきた♪」
「…そうだろ?
おまえが元気じゃないと困るんだよ」
「アツマくんが?」
「みんながに決まってるだろっ」
デコピンすんぞ、
調子乗ってフザけすぎてると……。
ま、
いいか、
いいよな。
愛も笑顏になってることだし。
一件落着だ。