学校に行くあすかと利比古を見送って、一息つく。
愛がまだ邸(いえ)にいるので、
「大学行かんくてもいいんか」と訊いたら、
「今日は講義、なーし」
「マジかよ」
「――でもって、アツマくんも休講で、今日大学行く必要、やっぱりなし」
「よく知ってたな」
「そりゃ知ってるわよ」
おれに向かって少し接近して、
「あなたとわたしの仲じゃないの」
まぁ……そうともいうな。
「アツマくん、眠そう」
「ん……」
「夜ふかしでもしてたの?」
「ちょっと大学の課題に手をつけてたら、手こずって……」
「ウソみたい」
「なにがだ」
「アツマくんが、夜ふかししてまで学問に取り組むなんて」
あのなー。
「おれも3年生なんだ。正念場なんだよ」
「正念場?」
「後期の話だけど、就活も始まるし――できるだけ単位は落としたくないんよ」
「あなた就活するの」
「は!? 普通するだろ」
キョトーン、としている愛。
なんだこいつ。
「――知らなかった」
愛は言う。
「知らんかったなら、これから理解してくれ。おれにも進路設計ってのがあってだな――」
「――そう」
「まあ、仕事をする、とかは――まだ先の話だけど」
「とにかく、今年度は正念場、ってことよね」
「ああ」
「わかった」
「わかってくれるか」
「わかったから……」
「?」
「……コーヒーでも飲みましょ。まだ、あなた眠そうだから」
× × ×
熱いコーヒーを淹(い)れてくれた。
コーヒー大好物の愛に振り回されてる感はあるが。
「――アツマくん、あなた、昨日リビングの隅っこで、『ゴルフごっこ』してたでしょ」
ぎくっ。
「何も持たないで、スイングするみたいに、腕振って。松山英樹のモノマネだったの?」
「……」
「そうなのね」
「そりゃあ……偉業達成だったんだから、影響は、されるだろ」
「苦しい言い訳~」
「あのなっ」
「…アツマくんにドライバー持たせたら、300ヤードぐらい飛ばしそう」
「や、いきなりそれは無理だろ」
「パワーあるじゃん」
「あったって…」
「プロゴルファーになったら?」
「あることないこと言い過ぎるな、おまえは…」
「これはわたしが以前から主張してるんだけど、
アツマくんは絶対、なんらかの競技でオリンピックの日本代表になれるポテンシャルを秘めていたと思う」
「秘めていた、って、もう過去形じゃんか」
「もったいないことしたわね」
「……スポーツに未練とか、ねーよ」
本心でおれは言い、
「……愛、おまえこそ」
「えっ?」
「おまえこそ、今から頑張れば、メダルのひとつやふたつ取れるぐらいのアスリートになれるかもしれないんじゃないのか」
「突拍子もないこと……言うわね」
「だって、運動神経は折り紙付きだし。それに、おまえはまだ若い」
「……スポーツは、趣味に留(とど)めておきたいから」
「それこそ、もったいねーなー」
「スポーツも、ピアノも、お料理も、趣味。もっと違うことで、わたしは社会に貢献したい」
「――具体的には?」
答えない愛。
『意地悪な質問しないで、とっとと眼の前のコーヒー飲んじゃいなさいよ……』という無言の圧力を、感じ取る。
「ま、社会貢献ってのは、立派な心がけだけど、まだ入学したばっかりなんだから、おまえはキャンパスライフを満喫するのがいい」
そう言って、ぐびり、とコーヒーを飲み干す。
黙っておれを見ていた愛が、
「アツマくん……今日、絶対絶対ヒマだよね?」
「ヒマ。」
「じゃあさ……」
「なんだよ、モジモジして」
「してないっ!!」
「はいはい」
「……わたしに、つきあってよ」
「デート?」
「そんなつもりは、なかったけど……デートとも、いえるわよね」
「どこに行きたいんだ、とっとと言っちまえ」
「文房具店……」
「文房具?」
「去年、わたしの誕生日のときプレゼントしてくれた筆記用具を……あなたが買ったお店」
「おぉ」
× × ×
というわけで、やって来ました、早稲田。
といっても、お目当ての文房具店は、キャンパスとは逆方向。
大隈講堂から遠く離れて――。
「おまえ早稲田受けなかったよな」
「慶応も受けなかったよ」
「今の大学に一途(いちず)、ってことか」
「まあ、そうね」
そんなやり取りをしていたら、目的のお店にたどり着いた。
おれは、去年の11月以来か。
「――で、愛はなにが見たいんだ?」
「ボールペンとね、ノートとね、それから、レターセット」
「レターセット?」
「さやかにインスパイアされて」
「あー、手紙を書いたんだっけか……片思いの、先生に」
「あーのーねーっ、『手紙書けば?』ってさやかに提案したのは、あなただったでしょーがっ」
「そういや、そうか」
「アツマくんは、手紙なんか書けそうにないよね」
「唐突な決めつけ、やめれ」
「あなたは、正しいペンの持ちかたの練習から、始めたほうがいいよ」
「……悔しいが、その通りだ」
「はい、素直」
「……しゃべくってないで、買うもの決めようや」
「ボールペン、ボールペン~~♫」と奇特な歌を口ずさみながら、ボールペンコーナーの前に立つ、愛。
「試し書きができるのよね」
おもむろに、棚からボールペンを抜き出して、サラサラと試し書きする、愛。
「なに書いてんだ……ドイツ語か? おい」
「『おい』じゃないわよ、どう見てもドイツ語でしょ」
「ずいぶん長ったらしい単語を……」
「これはね、ヘーゲルっていう哲学者が使ってた言葉なの」
「ヘーゲル、ねぇ……」
哲学科だもんな、こいつ。
『精神現象学』、だっけ。
かなり前に、書店で『精神現象学』を立ち読みしたことがあったが……、
1つの段落を読んだだけで、脳が疲れた。
これは日本語か!? といった感じで。
もちろん、元はと言えば、ドイツ語なんだけども。
こんな本を読み続けてたら……参っちゃいそうで、そっと書棚に戻したわけだったのだが。
哲学はヤバい。
――こういった考えに耽(ふけ)り始めていたら、
おれの隣に、若い女性が立ってきた。
ふと、その女性のほうを見てしまう。
横顔。
クールビューティー、って……ありふれた言葉で、若干古くさいけども、
それでも、その言葉がズバリ、当てはまりそうな女の人だ。
愛とは違った意味合いで――美人。
ポニーテールも、顔立ちにマッチしている。
おいくつぐらい――なのかな、と思い始めて、『オイオイよこしまな詮索(せんさく)しちゃいかんだろ…』と自分に言い聞かせ、愛の立つ側(がわ)に眼を転じる。
そしたらば。
「一ノ瀬先生!」
途端に――愛が叫んだ。
え??
この女性(ひと)と――愛は、お知り合い??
先生、
と、いうことは……。
「羽田さんじゃないの! びっくり!!」
「一ノ瀬先生、どうしてここに!?」
「お休みもらって、ショッピングなの」
「えっ、保健室は――」
「新しい先生が入って、2人体制になったから。今日は彼女にお任せよ」
「愛の、中高生時代の……保健室の先生でいらっしゃったんですか」
「そうですよー」
「あのっ、愛が、ずいぶんと迷惑をかけたみたいで……」
「あらら」
「その……なんと言いましょうか」
上手に話せなくなるおれ。
一ノ瀬先生は、余裕の笑い顔で、
「かしこまらなくてもいいじゃない、羽田さんの彼氏クン」
「……」
「アツマくん、だよね?」
ガチガチになりつつ、おれは首をタテに振る。
「――発動しちゃった」
「発動ってなんだよっ、愛っ」
「『大人のお姉さんが眼の前にいると、正気をなくしちゃう症候群』」
「正気な……つもりだが」
「ウソね。身体(からだ)に力が入りすぎてるもん」
「――そんなことまでわかっちゃうの!? 羽田さん」
「長いつきあいなので」
「凄いわね。彼の身体のこと、なんでもお見通しなのね」
「……」
「――ふふっ。
あなたも照れてるけど、アツマくんはもっと照れちゃってる」