土曜日ほど早起きではなかった。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに入れて飲む。
朝ごはん、きょうはどうしようかな……と思っていると、
スマホがブルブルと振動し始めた。
母だ。
「日曜の朝からなんなのよ、お母さん」
『いいじゃないの、最近しばらく電話してなかったんだし』
「わたし起きたばっかりだったんだけど」
『――不機嫌?』
「違う。まだちょっと眠気が残ってるってだけ」
スマホ片手に、姿見の前で、ブラシで髪を梳(と)かす。
『不機嫌そうだよ。まるであんた反抗期みたい』
「反抗期って……もう」
『琴乃(ことの)』
「はいなんですかおかあさま」
『ちゃんと、食べてる?』
「食べてるに決まってるでしょ」
きのうの朝を抜いたのは、ノーカウントだ。
「栄養には気を配ってるのよ。わたし保健の先生なんだから」
『――それ以前に、わたしの娘でもある』
「親バカみたいなこと言わないでよ……」
『だって、琴乃のこと、気になってしょうがないんだもの』
「……自己管理ぐらい、できるからっ」
『できても!』
笑いながら言わないでほしいんだけど。
「この期に及んで子ども扱いしないでよ。もうすぐ30なのよわたし」
ダイニングテーブルに移動し、スマホとにらめっこ。
「朝ごはん作りたいんですけど」
『もうちょっとまってよ』
「わたし、待たないから」
『琴乃ちゃ~~ん』
親バカじゃなくて、バカ親じゃないの、これじゃあ。
母を振り切って通話を打ち切る方法を、なんとかして考えようとしていたが、
『あ~、気づいちゃった! おかーさん』
「なにに? なにに気づいたっていうの」
『お酒飲んだでしょ――きのう』
「どうしてわかるの――」
どうしてわかるの。
わたしの顔も見ずに、どうして。
× × ×
「普段は画材を担当してるんだけど、きょうはたまたまノート棚の近くで仕事してたんだ」
「ほんとうに『たまたま』だったの? 信用できないよ」
「一ノ瀬がウチの店に来たことのほうが、よっぽど偶然だよ」
たしかに。
タニザキくんが、あんなところで働いてるなんて。
タニザキくんの就職先を知らなかったわたしが悪いんだろうか。
比較的早い時間帯からオープンしているBARだった。
土曜だから、というわけでもないらしい。
適度な距離を保ちつつ、互いの顔を見るでもなく、ふたりしてカウンターに座っていた。
「一ノ瀬が学校の先生になるなんてなあ」
「意外だったの?」
「あぁ」
「はっきりと即答しなくても…」
「保健室の先生なんて、もっと意外だった」
「……夢だったのよ」
「すごいじゃないか、夢を現実にした」
「……現実になったらなったで、うまくいかないことも多いけど」
「そりゃなんだってそうだろ、おれの仕事だって」
忘れていた、わけではない。
でも、取って代わるみたく、もっと大きな存在ができて。
「ごめんねタニザキくん、音信不通状態で」
「音信不通じゃないほうが不可解だよ」
「わたしたち、同窓会とか、まだ一度もしてないよね。それも、不可解」
「まー、同窓会なんて強制じゃないんだし」
「でも、疎遠すぎるのもなんだか」
「やるか? 同窓会」
「卒業から12年経ったらやろうよ」
「なんじゃいな、その表現は」
「こういう表現だってアリでしょ」
「――よし、幹事はおまえで決まりだな」
「――社会人になっても、無理を通そうとするのは、変わってないんだね」
「なにを言うか。無理矢理なのはむしろ、おまえのほうだったじゃないか」
タニザキくんのほうが、正しい。
無茶しかしてなかった。
無茶しすぎて、つらくなって、タニザキくんに当たり散らすこともあった。
「……ごめんなさい」
「高校時代のことを、いまさら謝られてもだな」
「ブレザー、しわくちゃにしちゃって、ホント、ごめんなさい」
「はぁあ!?」
「憶えてないの? 『弓道場の事件』のこと」
『弓道場の事件』といっても、べつにエロいことがあったわけではない。
彼のブレザーを、しわくちゃにした、だけ。
わたしのブレザーも、だいぶおかしなことになってたけれど。
逆上して、タニザキくんのブレザーを鷲(わし)づかみにして。
もみくちゃになった弾(はず)みで、気づいたら、わたしのリボンもほどけていて。
それだけ…なんだけど、じゅうぶん、エロいかも、やっぱり。
「――顔赤くして、どうした? 酔ったんか?」
「わたしまだぜんぜん飲んでないよ」
× × ×
「……知り合いに会ったから、少しだけ飲んだの」
『高校の同級生とか?』
「なんでそんなにカンがいいの……」
『当てずっぽう言っただけなんだけど』
追及されると、とってもとっても面倒くさいことになると思ったから、
「お腹すいたから、もう切るね」
と言って、通話終了ボタンを押した。
肩を落としてしまう。
それから、深いため息。
パンをトーストするぐらいしか、気力がない。
とぼとぼとオーブントースターに歩み寄る。
食パンが焼けるあいだに、スマホのドイツ語学習アプリで、ほんの少しだけお勉強をする。
――スマホアプリもいいんだけど、
紙媒体も、活用しないと。
教科書も、買ってあるんだから。
それ専用のノートだって、買ったんだ。
そうだ。
ドイツ語を勉強するノートがほしくって、文具店に行ったんだ。
ドイツ語を勉強する動機は――杉内先生に、少しでも追いつきたかったから。
現在進行形で発展していく杉内先生との関係のために、わたしは努力したくって。
現在(いま)、いちばんわたしのなかで大きな存在の異性は、紛れもなく杉内先生だった。
そんなところに、タニザキくんとばったり再会した。
少しだけ、食い込んでくる、タニザキくんの存在。
けれど、それは、少しだけ。
すぐに、元通りになるから。
× × ×
ふたりだけの即席同窓会は、終わった。
「まだ9時にもなってないや」
そうは言うけれど、タニザキくんの性格なら――『2次会行こうぜ』とか、絶対に切り出さないことは、わかっていた。
事実、2次会に誘わない代わりに、
「またよかったら来てくれよな、ウチの店に」
と、力強く、明るく、言ってくるだけ。
「ノートが必要になったら……たぶん、また買いに来ると思う」
なんのための、だれのためのノートなのかは、心にしまっておくけれど、
タニザキくんならば、たぶん、次第に、見透かしていく。
いいんだ、それで。
「よろしくお願いするよ、一ノ瀬琴乃!」
「フルネームで呼ばなくったっていいじゃない」
「ムカついた?」
「ムカつく」
「ムカつく」なんて、普段言わない。
言わないから、言った。
半分、ホントにムカついたから、
タニザキくんのフルネームを呼び返してやろうか、なんて一瞬思ったけれど、
わたしはもう高校生じゃないから、それは自重した。