なんて大人げなかったんだろう、わたしは。
教え子相手に意地張って、ムキになって。
思わずカーッ、となって、怒鳴りつけてしまった。
羽田さんが保健室から出ていったあと、怒った自分が情けなさ過ぎて、自己嫌悪にさいなまれた。
伊吹先生に連れられて羽田さんは保健室に戻ってきた。
ずいぶん泣き腫(は)らした顔になっているのは明らかで、ますます罪悪感が襲ってきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、一ノ瀬先生」
振り絞るように言う、羽田さん。
わたしこそ――ごめんね。
「わたしも……言い過ぎだったよ。みっともなかったよ」
「これからも、わたしと口(くち)きいてくれますか、一ノ瀬先生」
「もちろんよ……」
――そう言って、思わず、羽田さんのからだをぎゅっ、と抱きしめた。
× × ×
「なぐさめてあげたのは、伊吹先生だったんですね」
『そうよ。羽田さん、強烈にSOS出してたから』
「泣きじゃくってた――とか」
『そりゃもう』
「ダメージ…大きかったんだ」
『まだ18歳の女の子なんだもん』
「思春期ですもんね…」
羽田さんのような年頃――。
わたしにも、思い当たる節は、ある。
土曜の午前中から伊吹先生と電話で話している。
やけに早く目覚めてしまった土曜の朝。
まだ、空が薄暗かった。
きのうの放課後のみっともない振る舞いが、こころに引っかかっていて、それでじゅうぶんに眠れなかったのかもしれない。
起きてからしたことは、お風呂に入って、髪を洗って――でも、まったく洗った髪を整えていない。
ドライヤーもろくにあてていないから、ものすごーくズボラな頭髪になっている。
ボサボサで、ヘアゴムでまとめるのすら、しんどい。
とうぜん、こんな姿、生徒や同僚には見せられない。
鏡に映ったズボラな自分を見て、『どうしようもないなあ』という苦笑いを浮かべる始末。
だらしない。
朝ごはんを作るのも、めんどい。
羽田さんのほうが――100倍ちゃんとしてるよ。
怒る筋合いなんか、なかったんだな。
はーっ。
……で、乱れた身なりのまま、ベッドに大の字になって、スマートフォン越しに伊吹先生とお話しているわけである。
「伊吹先生、羽田さんをケアしてくれて、ありがとうございました」
『担任だもの』
「まだまだ未熟者ですね……わたし」
『まーまーそんなこと言わずに』
ごろん、と寝返りをうって、
「先生、朝ごはん、食べましたか?」
『食べたよー』
「わたしは朝食抜きです」
『あらま、養護教諭らしからぬ』
「ホントにそうですよね……『保健室の先生の不養生』です」
『あたしはさ、武彦くんにも食べさせてあげなきゃならないから』
「朝食当番なんですか?」
『だいたいあたしだね』
――きちんとしてる。
「きちんとされてるんですね――やっぱり、旦那さんが居(お)られると、気持ちが違ってくるんでしょうか」
『ん、気持ちが違ってくる、って??』
「――すみません、半分は、独(ひと)りごとでした」
『……楽しいよ、ふたり暮らしは』
「……身にしみて、わかります。」
『で……やがて、ふたり暮らしを卒業して、3人になり、もしかしたら4人かそれ以上にもなっていく』
「家庭ができる、ってことですよね」
『そ』
わたしは、また寝返りをうつ。
『ね、一ノ瀬先生、いま、パーッとやりたい気分なんじゃないの?』
「どんな気分ですかそれ…」
『飲み、とか』
「べつに、お酒に頼るとか、しませんって……それこそ『不養生』だし」
『ことしの忘年会の幹事、だれだっけ??』
「ずいぶん先のことを持ち出すんですね」
『…ま、少なくともあたしは、ことしは自粛だわ、忘年会』
どうして自粛なんですか、とは、わたしはあえて訊き返さなかった。
× × ×
正午を過ぎてようやくシャキっとする。
お昼ごはんに作った大根サラダをシャキシャキと食べる。
それから身支度をしていたら――もうこんな時間。
× × ×
東西線を降りて、神楽坂寄りの出口から、地上に出る。
早稲田。
東西線沿線のなかでも指折りの、わたしに縁(えん)のない土地だ。
『早大通り』ってわざわざ通りに名前がついてるけど、だからなんだっていうんだろう。
アンチ早稲田大学とかそういうわけじゃない。ただ、わたしと早稲田大学が1ミリも関係なかっただけ。
杉内先生にしたって、早大卒じゃないし。
……あれっ!?
……わたし、なんでいま、杉内先生のこと、連想しちゃったんだろ!?
不自然だよね……。
……それとも、無意識?
気づけば、ものごとを、杉内先生と関連付けたがっている、自分がいる。
たしかに、彼とわたしは、お互いに自分の出身大学を教えあったけれど。
出身高校だって共有してる。
生年月日だって。
血液型だって。
だからって――こんなとこまで来て、彼のこと、思い浮かべなくてもいいじゃないの。
× × ×
大隈講堂からかなり遠ざかった場所に、お目当ての文具店はある。
彼にはナイショで来た。
共有するモノやコトはどんどん増えていくけれど、共有していない領域も、まだまだある。
やがては、そんな領域も、狭(せば)まっていくんだろうか。
いまはまだ、文具店や雑貨屋に行くのは、ひとりのほうが、気楽だ。
気になってはいたものの、入店するのは初めてだった。
ノートを買うつもりで来た。
自分のために使うノートだ。
ドイツ語を勉強するためのノートだ。
なぜドイツ語なのか。
彼は…杉内先生は……担当教科が、ドイツ語なので。
大学の第2外国語でドイツ語を習ったのは遥か昔のことだ。
(遥か昔、といっても、10年未満なのは、忘れずに付け加えておく)
スッポリ忘れたドイツ語への学習意欲が昂(たか)ぶってきた。
わたしが買うノートは見せたくないけど、なんとしても、ドイツ語を彼と共有したい……そんな熱意に駆られて。
そんな熱意を胸に抱(いだ)きながら、ノートの棚を眺め回していた。
どんなのがいいかしら。
安物は眼中にない。
予算は気にしていない。
でも、このお店に陳列されてるノート、バリエーションが豊富すぎて、絞るにも絞れず、選ぶにも選べない。
悩んだ。
1冊、手に取って中身を確かめようとしたら、ふとした弾みにノートを落としてしまった。
あわてて拾い上げようとしたら、店員さんがわたしより先にノートに手を伸ばしていた。
恐縮でわたしは、
「すみません、不注意で、落としちゃって。わたしそのノート、買います」
「いいんですよ、そこまで神経質にならなくったって」
「でも、汚しちゃったかもしれないし――」
「――そんなに心配性だったっけ? 一ノ瀬って」
え??????????
もしや、もしかして、
眼の前の、店員の、男の人は。
「タニザキくん……なんで、ここに」