きのうの夜あたりから、愛に元気がない気がする。
きょうの夕飯のときも、なんだか終始冴えない表情をしていた。
どうしたものか――。
× × ×
あしたのスケジュールを部屋で考えていたら、乱雑にドアを叩く音がした。
ドアのところまで行って、声をかける。
「――愛か?」
『どうしてわたしだってわかったの』
「――直感かな」
『なにそれ』
まあひとまず、ドアを開けてあげる。
見ると、陰鬱な表情をした愛が、山のように参考書やらノートやらその類(たぐい)を抱えているではないか。
「――ここで、勉強するってか」
「やる気が出ないの」
「おれの部屋だったらやる気出るってか?」
「……アツマくんが、いてくれたほうが」
「デレるな」
「うるさいデレてないっ」
「ペンを投げるな」
× × ×
ドサァッ、とおれのベッドに腰掛ける愛。
ひとのベッドはもっと大切に扱え。
「おいおい勉強するんじゃなかったんかい」
うつむきつつ愛は、
「……きのうは日曜日だったし、1日じゅう受験勉強のつもりだったの。
でも、全然はかどらなくって……気づいたら夕方まで、ほとんどなにもしてなかった」
なるほど納得。
「それできのうの夜あたりから、元気がなかったんだな、おまえ」
「どうしてわかったの……」
キタ~、愛の常套句(じょうとうく)。
「……というか、気づいてたんなら、わたしになにか声をかけてくれたりしてもよかったじゃない」
「そりゃすまない……様子を見ていたんだが」
「きょう、学校でも、心ここにあらず、だったわ」
「夕飯でひとこともしゃべらんかったもんな」
「よく見えてるわね、わたしのこと」
「だって隣で夕飯食ってたし」
「様子を見るだけじゃなくって、もっと気づかってほしかったのに」
「気づかう? どんなふうに?」
「『なんかあったのか?』とか……、ひとことでも、あなたが言ってくれたら、うれしかった」
――見守るだけじゃ、ダメだったか。
大学受験が迫ってデリケートな時期だし、愛の様子の変化には細かく気を配ろうとは思っていたんだが、声かけ――大事だった。
「わかったよ。なにか気づいたら、言ってやるよ。その代わり、おまえもなんでも話してくれよ」
愛はうれしそうな顔になって、
「うん、なんでも話す」
それから、ベッドから降(お)り、テーブルの前に床座りになって、
「わたしがダメになりそうだったら、助けてね。たぶんわたしのほうから『助けて!!』って言うと思うけど」
「いまは、どうなんだ? ダメじゃないのか?」
「ただのモチベーション低下よ。こんなのどうってことない」
「ずいぶんと暗い表情で部屋に入ってきたが……」
「この部屋に来てアツマくんと話してたら元気になった」
「じゃあ――勉強も、手につきそうだな」
「その前に。」
「へっ?」
「机の前に座ってないで、アツマくんもこっち来てよ」
「――隣にいてくれ、と」
「そうよ。わたしの近くにいて」
お望みどおり、テーブルの前に腰を下ろし、愛と斜(はす)向かいになる。
右腕で頬杖(ほおづえ)をつき、愛の顔を眺める。
「たしかに――顔色が、夕飯のときより、良くなってる」
「アツマくんだからわかるのかしら」
「そりゃ知らん」
「わたし、夕ご飯のとき、どんな感じだった?」
「沈んでるみたいだった」
「あちゃー」
「なんだよ、あちゃー、って」
「……心配かけちゃって、ごめんなさい」
「いちいち謝らなくたっていい」
おれはテーブルに頬杖をつき続けている。
「ずっとわたしの顔、見てるのね」
「……悪いか」
「……見飽きないんだ」
うるせぇっ。
「そーいうところだぞ、愛」
「なにいいたいの」
「せっかくおまえはかわいいのに、『見飽きないんだ』とか言ってしまうところが、ほんっとーーーーーーーーーーに、かわいくない!」
「どういう意味よ……」
「まだわからないんか。
とにかくかわいい反面、とにかくかわいくない」
「それは……ほめてるの、ほめてないの」
「ほめてるし、ほめてない」
「答えになってないじゃん」
「あーあーまったくもう。早く勉強しやがれ」
「ごまかさないでっ」
極端に近寄ってくる愛。
また、このパターンかよ。
「ひっついてくんな。当初の目的を思い出せ」
「あなたがごまかすからいけないのよっ」
「イチャついてると大学すっ転ぶぞ」
「脅(おど)さないでよっ、わたしは絶対受かる」
「じゃあ勉強しろよっ、自信を確信に変えろ」
「もう確信なんだもん」
密着する愛の体温が、ジカに伝わってくる。
「熱いだろが」
「そこは『あったかい』って言うべきところ」
「あっちっち」
「ふざけないで!!」
「ふざけてんのはどっちだ!?」
「――あなたにひっついたまま勉強する。もう、離れない」
「そんな体勢で勉強できるわけがない」
「できる」
「――おまえ、左利きじゃないだろうが」
「利き腕じゃなくったって書くことぐらいできる」
しかし、右腕でおれにしがみつきながら、左手でノートに書いた文字は、明らかにフニャフニャだった。
「ほーらみろ」
自分のフニャフニャ文字に絶望し、とうとう観念したらしく、ようやくおれから身体(からだ)をほどいた。
「よし、いい子だ」
「……」
「その調子で、まじめに勉強しような」
おれとの至近距離を保ちつつ、黙って英語の参考書を開く。
しばらく、参考書に眼を通していた――と思いきや、
「アツマくん、助けて」
「――いきなりどうした?」
「助けてって言ったら助けてよ!」
「なにをどう助ければ――」
「……わかんない英単語があるの」
「そんなばかな」
「そんなばかなじゃないわよ、ほんとのほんとにわかんないの」
「おまえにも、わからない英単語が……」
「教えて」
「おれが?」
「わたしに教えて、この英単語の意味」
「……ん~っ、と」
――こんなスペルの単語、初めて見たぞ。
マズいっ。
「辞書を引いたほうが……早そうだな」
「アドバイスありがとう」
「おれの辞書貸すよ」
「助かるわ」
「…どうも」