「KEIRINグランプリ」。競輪版の有馬記念みたいな位置づけらしい。今日地上波テレビで生中継もするそうな。
長テーブルに広げた某・スポーツ新聞の紙面でKEIRINグランプリが特集されている。わたしはそれをボンヤリと見ている。もちろん競輪のことなんて何も知らない。でも、昨日ビデオ通話で中村創介(なかむら そうすけ)さんに言われたことが心に引っ掛かっていた。『スポーツ新聞社への就職を強く希望するのなら、競馬などの分野にも気を配った方がいいよ』。こういう趣旨のことを言われた。競輪も競馬と同じく公営競技の範疇(はんちゅう)。縁遠い世界だけど、スポーツ紙記者になったとして、関わりを持たないとは限らない。
ボンヤリとスポーツ紙競輪面を眺めるわたしのBGMは、兄貴がエアロバイクを漕(こ)ぎ続ける音だった。
体力だけ無駄にありまくりな兄貴が長時間にわたってエアロバイクを漕ぎ続けている。止めどなく回転する脚。筋肉質で、キックされたら激痛が走りそうだ。もっとも、当たり前のことなんだけど、兄貴は妹をキックするような極悪人間ではない。
今までで兄貴が他人をキックしたのは、中学時代、イジメられていた男子に復讐を果たした時だけだ。
中学時代のある時期から、兄貴は急激に強くたくましくなったんだよね……と、回想に入りそうになっていた。
しかし、
「競輪の予想でもしてるんか? 妹よ」
という声で、我に返る。
「してないよ」
エアロバイク上で脚を停めた兄貴に向かいハッキリと否定する。
「だよなあ。競輪の予想って、競馬の予想より10倍難しいっていうから」
「どこでそんなこと聞いたの」
バカ兄は答えることなくヘラリヘラリと笑う。
ほんとーにバカじゃないの!? 答える気がハナっから無いってゆーの!?
× × ×
「はあ。何度でも溜め息をつきたくなってきちゃうよ」
わたしは俯きながらテレビのリモコンを取る。
12月30日なんだし面白い特番でもやってないだろうか……と、リモコンの電源ボタンを押そうとしたら、
「おーっと。妹よ、テレビ見るのはちょっと待っておくれ」
という声が左側からやって来た。
兄がいつの間にかソファに座っていた。着座位置はわたしの左斜め前で、やや距離感があった。
「愚かなお兄ちゃんはどこまでわたしの行動を妨害する気なのかな」
「あすか。『妨害』はやめーや、『妨害』は」
溜め息が自動的に出てくる。
「お兄ちゃんの言い回し、なんかヘンだよ」
「どの辺りが?」
愚兄にはさっきヘラリヘラリな笑顔ではぐらかされたばっかりだったから、お返しに顔を逸らして回答を拒絶する。
「シカトかよー」
怒りや不快感のまったく籠(こ)もっていない声で愚兄は言い、それから、
「今からおれがおまえに訊くことは、シカトしてほしくないんだけど」
依然として顔を逸らしてわたしは抵抗する。
すると、
「利比古のコトなんだけどな」
という愚兄の声が左耳に食い込んでくる。
ドクン、という音がわたしの中で鳴った。左の耳たぶも右の耳たぶも熱くなる。
利比古くんの名前を兄が出してきた途端に、冷静さを喪失してしまう。
意識しているから、顔が熱くなる。顔が熱くなるから、わたしを見る兄の眼が怖くなる。
「最近どーなんよ、あいつ。あいつの共同生活者としてあすかに報告してもらいたいもんだが」
軽めの口調だった。わたしの火照りに、たぶん、気付いていない。
姿勢を正してみる。両膝の上に両手を置く。兄を避けずに視線を寄せる。
報告してほしいのなら、報告するのが筋(スジ)というものだ。
だけど、わたしが口から出したコトバは、
「鈍感でいいよね、お兄ちゃんは」
というモノだった。
「はあ? 鈍感ってなんぞ。文脈無視しないでくれよ。おれは利比古の近況が是非とも知りたいんだよ」
「オトコ同士なんだから、直接訊けばいいでしょ」
捨てゼリフのようにわたしは言ってしまった。
徐々にではあるが、兄の顔を正視できなくなってきている。
「その理屈はおかしい!」と兄。
「おかしくないよ」と妹のわたし。
「おまえの方があいつのこと『見えてる』だろ。おれの方は離れて暮らしてるからあいつの様子がなかなか見れんのだ」
「……また、『見れんのだ』とか、ダサい言い回し使ってる」
「おいおい、話の方向を曲げないでくれ」
反発したいキモチが一気にやって来て、
「曲げるよ!!」
と大きな声を出した。
大きな声を響かせてしまった後で、兄の表情を恐る恐る確かめようとした。
兄は呆れながら笑っていた。
兄の余裕さがわたしに伝わる。その余裕さがわたしを抉(えぐ)ってくる。