【愛の◯◯】あいまいな抱擁

 

おかしい。

おっかしいぞぉ。

おっかしいってばありゃしない。

 

あすかさんが、おれのほうを向いて話してくれるようになったと思ったら、どういうわけか知らないが、おれのことを『岡崎さん』ではなく『お兄ちゃん』と呼んできて。

つまり、おれとアツマさんを混同してしまっているのだ。

あすかさん――正気に戻ってくれ、もとに戻ってくれ。

 

× × ×

 

「あすかさん」

「はいなんでしょうか、お兄…岡崎さん」

いかん。

きょうの放課後になっても、治っていない。

「今夜のDeNA予告先発、だれだっけ?」

「だ、だれでしたっけ、ちょっとまってねお兄…ちょっ、ちょっとまってくださいね岡崎さん。……濱口でした」

ううむ……如何せん……。

「もうひとつ訊いていいだろうか」

もう、なんなの

「……Jリーグは、いつから始まるんだろうか」

「やだなあお兄ちゃ…お、岡崎さん、Jリーグはもう始まってますよぉ」

これはだめだぁ。

「蒸し暑くて……参っちゃうよね」

「ぜんぜん平気だよお兄ちゃ…平気ですよ岡崎さん」

「おれにはぜんぜん平気に見えない」

うつむいて、くちびるを噛む彼女。

おれだって辛いんだあすかさん。

「少し――涼みに行こうか」

 

× × ×

 

「お兄…岡崎さん、さっきわたしはJリーグもう始まったって言いましたけど」

「けど?」

「J2とJ3が先に始まって、J1は今週末からなんです」

「そうだったのか…。でも、それはどうでもいいことだ」

会話が、途切れる。

静寂よりも辛いのは沈黙。

体育館から、バスケットボールの音や、バレー部らしき掛け声が響いてくる。

息を吸い込んで、おれは問いかける。

 

「アツマさんは……元気か?」

 

「どうしてそんなこと訊くんですか……岡崎さん」

 

こんどは、ちゃんと『岡崎さん』と呼べるようになった。

これなら、いけるかもしれない。

「どうしてもこうしてもない。アツマさんは、きみのお兄さんは、おれの先輩だから」

「そうでしたよね……。

 元気ですよ、すこぶる。

 相変わらず脳天気ですけれど」

「脳天気か――そこも、アツマさんの魅力だった」

「わたしには欠点としか思えないんですけど」

「――距離の問題かな」

「?」

「きみとアツマさんは兄妹だし」

「家族であるかどうかとか、そんなに関係ありますか」

「あるよ」

おれは即答した。

「でも、距離が近すぎると、ぼやけてしまうこともある。

 ほら、きみだってきのう、同じようなことつぶやいてたじゃないか」

彼女は『そういえばそうだった』という顔をして、

「岡崎さん」

「うん。」

「岡崎さんは――尊敬してるんですね、兄を」

「当然だ」

「憧れてたんですか……」

「ああ。

 憧れたり、

 嫉妬したりしてた」

嫉妬』ということばに敏感に反応したのか、あすかさんは口をつぐんだ。

「さいしょにアツマさんを見たのは、中3の学校見学だった」

言うべきか迷っていたけれど、こころでずっと温めていたことばを、おれは言うことにした。

「おれは、おれは…アツマさんに、劣等感を抱いていたんだ」

「劣等感って……なんで」

「おれもスポーツには自信があったんだ。

 だけど、アツマさんは、おれのはるか上を行っていて――『この先輩にはかなわない』と悟った、

 彼の後追いをしたら、自分が潰れると思った。

 妹さんであるきみには申し訳ないけど――アツマさんの存在が大きくて、おれは挫折したんだ」

「……そんなに兄を意識する必要があったんですか。楽しくスポーツしよう、って思えばよかったんじゃないですか」

「開き直るのが苦手なんだ、おれは」

「罪ですね。兄は。」

「勘違いしないでほしいのは、もう今は、きみのお兄さんのことをうらやんだりしてはいないってことだ。

 そもそもスポーツ新聞部は、きみのお兄さんのおかげで誕生した部活なんだから、ね」

「そういえばそうでした」

「だから、できれば自分のお兄さんのことを『罪』だなんて思わないでほしい。

 おれはアツマさんのことを純粋に尊敬している」

「だったら言う必要なかったんじゃないですか、劣等感がどうこうだなんて」

「それは違うよ」

「違うって……なんで…」

「おれが卒業するまでに、このことは打ち明けておかないと思ってた。

 ――劣等感や、嫉妬心があったからこそ、なおさらアツマさんを尊敬できるんだ、人一倍」

「岡崎さんの理屈、わかりませんっ」

「わからなくていいよ」

「岡崎さんが兄を尊敬してるからって、なにがどうなるっていうんですかっ!」

「おれがこんなこと話してるのは――」

「――のは?」

「『きみのお兄さんとおれは違う』って、きみにわからせたかったから」

「わかってますよ――それは」

「じゃあなんで再三おれのことを『お兄ちゃん』って呼ぼうとしたのかい?」

図星のはずだ。

戸惑いながら、顔を赤らめる彼女。

「お兄さんはお兄さん、おれはおれだよ」

 

わかってほしい。

このことは、ちゃんとわかってほしいんだ。

 

「…それでも。

 劣等感なんて、最初から持つ必要なかったと思います」

「…なんでそう思うの?」

「お兄ちゃんがお兄ちゃんで、岡崎さんが岡崎さんなのなら。

 岡崎さんには、岡崎さんにしかない、『輝き』があるから!!」

 

『輝き』なんて、大げさだと思うけれど。

 

「岡崎さんは岡崎さんでカッコいいじゃないですか……!」

 

泣きそうになりながら彼女は言う。

 

わたしがいま、世界中でいちばんカッコいいと思ってるのは、岡崎さんです

 

さすがに、心拍数が、すこし上がってきている。

 

岡崎さん、わたし、岡崎さんのこと……を、考えると……

 

冷静になるんだ。

自分で自分を落ち着かせて――そのあとで、眼の前のあすかさんも落ち着かせる。

 

おれは慎重に口を開く。

 

「一生のお願いだ、あすかさん」

 

ドッキリとする眼の前の彼女。

 

「その続き、保留にしてくれ」

 

『どうしてなんですか…』と問う代わりに、彼女の眼が、うるみ始める。

 

「ひどいって思ってくれていいから、どんだけひどいんだって思っても」

 

かすれるような声で、

ひどいを通り越してますよ……

 

そうだ。

ひどい。

ひどすぎる。

おれは最低だ。

 

だから――。

 

泣きじゃくり、おれの身体にむしゃぶりつくように抱きついてくるあすかさんを、甘んじて受け入れていた。

 

部活の音も響かなくなるような時間まで、おれはあすかさんに、ずっとずっと抱き締められていた。