【愛の◯◯】姉とふたりの空間で◯◯……

 

姉が予約したカフェの席はほぼ個室だった。一般席から遠い場所にあり、付けられた仕切りによって音を遮断している。離れ小島のように静かな空間になっているのだ。窓からは隅田川が見下ろせる。真夏の空と隅田川コントラスト。

「テーブルの上のボタン押して注文するのよ」

ニッコリ笑って告げる姉。

「良いでしょ? GOODでしょ? 落ち着くでしょ? まるで貸し切り状態みたいな涼しい空間で、思う存分くつろげる。夏の青空はキレイだし、隅田川の水面(みなも)もキラキラしてるし」

見晴らし良い景色をバックにニコニコニッコリの姉。

姉と向かい合って着席しているぼくは、

「いったいお幾らぐらいでこんな席確保したの? たしかに、GOODどころかExcellentな空間だけど、たぶん、出費は相当に……」

「なーんてコトないのよっ、利比古」

気になって訊いたぼくに対して姉は平然と、

「ドイツ語下訳バイトの報酬が積み重なってたからね、こういう特等席取るのも、容易いコトよ」

「……ふうん。」

ぼくは取り敢えず相づちを打っておく。

『バイトってそんなに稼げるのか』と思ったのも事実。まあモノにもよるんだろうけど、バイトで稼げたら、眼に見える風景も違ってきそうだ。金銭感覚が変貌するんだろう。

ぼくは大学2年の夏休みだが、まだバイト歴皆無状態だ。早くバイト体験をした方が良いとは思っている。

ただ、バイト探しよりも、バイト探しなんかよりも、何倍も気がかりなコトがぼくにはあるのである。

『それ』を知らされて、一気にナーバスになってしまった。『それ』に対して気を向け過ぎて、その他のコトに上手く集中できないでいる。

「わたしはこのお店でいちばん値段高いコーヒーを頼むわ。利比古、あんたは?」

両手でメニューを持ちながら姉が訊いてくる。

姉は、ぼくのナーバスをどのくらい感知しているのだろうか。実を言うと、『それ』は姉から知らされたのだ。ならば、姉の『アンテナ』の感度が相当な域に達している可能性も高い。『アンテナ』で弟のナーバスを察知しているとすれば、しているとすれば……。

い、いやいや。

いったん、置いておこう。メニュー選びを姉が促している。

「じゃあ、アイスコーヒーと、抹茶パウンドケーキ」

「抹茶パウンドケーキとか、渋いわねえ。流石は、わたしのハンサムな弟」

お姉ちゃん。なんですか、それは。

ハンサムを強調しなくたって……。

 

× × ×

 

「利比古〜? とっても良いモノをあんたに貸すわ」

高級ホットコーヒーをブラックで飲み切った姉はそう言って、バッグをガサゴソする。

取り出してきたのは、

タブレット端末? お姉ちゃん、それをぼくに貸すって言うの」

「そーよ」

姉が端末を差し出した。ぼくは端末を受け取った。

なめらかな手つきで姉が卓上のボタンを押す。

すぐに店員さんが来てくれて、姉は迷いなく高級コーヒーのお代わりを頼む。

店員さんが去ってすぐ、

「わたし、17時ぐらいまで本を読んだりして過ごすわ。あんたは、その端末で自由に遊べば良いと思う。端末1つあれば、いろんなコンテンツにアクセスできるんだし」

もちろん、この空間はWi-Fi使用可能だ。

可能なので、端末でなんでもできるんだが、

「17時って、あと1時間半以上も」

「えー? もしや、このわたしが、1時間半以上読書の集中力が続かないとか思ってるの!?」

「い、いや、思ってない、思ってないんだけどさ。……17時まではここに留まるとするなら、お姉ちゃんがアツマさんと住んでるマンションに帰った時は、もう夕飯時なんでは?」

「それを気にしてるの? ぜーんぜんダイジョーブ。夕ご飯の仕度をわたしが遅らせたからって、わたしのカレシは耐え忍べるんだから」

「か、かわいそうだよっ、アツマさんが。『耐え忍ぶ』だなんて……!!」

しかし、姉は聞く耳を持たない。

性格の難儀さを如何なく発揮し、バッグから分厚いハードカバー書籍を取り出し、テーブル上にデン! と置く。

このタイミングで店員さんが姉のお代わりコーヒーを運んできて、テーブルの中央の辺りにコーヒーの一式(いっしき)を置く。砂糖もミルクも要らないのを姉が丁重に伝える。

店員さん去りしのち、ロープライスの反対のホットでブラックなコーヒーが入ったカップを、スーッと口に運んでいったかと思えば、眼を閉じつつ微笑する。

コーヒーの味わいに満足なご様子の姉は、分厚いハードカバーの本を開く。どうやら、ヨーロッパ近代史の研究書のようだ。

姉は次第に読書に没入していく。ぼくの問いは完全にスルーされる。どうしようもない手持ち無沙汰がぼくに産まれて、渡されたタブレット端末をいじくるしか選択肢が無くなる。本当に本当に仕方無しに、YouTubeを視(み)たりウィキペディアを読んだりする。

しかしながらぼくはYouTubeにもウィキペディアにも上手に集中できない。

姉の非常識的な振る舞いと、『それ』に対するナーバスが、渾然一体となり、せっかくLuxury(ラグジュアリー)な空間に来ているのに、集中力を削がれ、くつろぎ気分が弱まっていく。

特に『それ』に対するナーバスが、しぶとい。ナーバスが粘りついてくる。『それ』の当事者にぼくも含まれるので、というか、最も当事者なのがぼくなので、懸念の感情がループするかの如くに湧き上がってくる。

知的好奇心でもって読み始めたはずのウィキペディアの文章。しかし、ぼくの眼は文字の表面を滑っていくだけ。読めない。全く読めない。

ぼくもダメなのだ。プレッシャーに弱すぎるんだと思う。もちろん、『それ』へのプレッシャーだ。ロールプレイングゲームの何度でも復活する最終ボスのように、不安という名の敵が、延々とぼくにのしかかってくる。

こうなってくると、ExcellentでLuxuryな空間を用意してくれた姉に対する良心の呵責(かしゃく)も広がっていく。たしかに、姉の性格その他に難があるのは事実。だけど、ぼくの不甲斐無さに起因する良心の呵責が、姉のじゃじゃ馬を凌駕していっている。

タブレットをいったん置き、うつむいて、お冷やの残った細長いグラスを見た。

「利比古ー? どしたー?」

常の状態とは異なるぼくの様子にとうとう気付いた姉が、声を掛けてきた。

少し視線を上げる。それから、美人で眩しいけれどギリギリ直視できる姉の顔を見る。

姉が右腕で頬杖をつく。さらっ、と栗色の長い長い髪が揺れる。

「あのね、今、わたしの推理力をフル稼働させてるんだけど。利比古、あんた、もしかしたら――」

ヒヤリとなるぼく。

ぼくの背筋(せすじ)に冷気が走ったと同時に、

「明日からの『アレ』のコトを考えてるのね? それで、ナーバスになってるのね?」

震えつつ、

「どうしてわかるの……お姉ちゃん」

と、言ってしまう、ぼく。

「答えなんて簡単に導けるのよ。だって、ほら、麻井律(あさい りつ)ちゃんとは、約3年半ぶりに顔を合わせるんでしょう? しかも、あの子は、あんたたちのお邸(やしき)に2泊3日。明日が来ても、ココロの整理整頓ができないままなのも、当たり前だと思うわ?」

一気に言われた。姉の言ったコトの全部が的を射ていた。胃に締め付けを感じ、胸のドクドクという音が聞こえる。

「精一杯助けてあげるわよ、姉のわたしが」

「……助ける?」

ナヨナヨに言うぼくに、

「こんな素晴らしい空間に連れてきても、まだナーバスは改善されない。……これも、想定済みだったの。読書を中断する気は無かったけど、あんたのナーバスの度合いが酷そうだから、緊急のお手当てをしてあげたい」

「緊急って……お手当てって……なに……?」

情け無く言うぼくに、

「席移動!」

「せ、席移動っ!?」

のけ反(ぞ)るぐらいビックリするぼくに、

「右隣の椅子に座ってあげるから。……遠慮無く寄り添いなさい? わたしも寄り添い返すから。もっと至近距離になって、優しくしてあげる。そうやって触れ合うコトでしか、あんたを助けるコトはできないんだから」

呆然。

コトバがなんにも出てこない。

姉が腰を浮かす。

「スキンシップも有力な処方箋よ。そう、処方箋! 助けてあげるし、癒してあげる。姉のわたしに、頼ってくれなかったなら……お説教しちゃうゾ」