兄さんが結婚するかもしれない。
今の彼女さんとの関係が、思ったより進展していて。
「適齢期」とかよく分かんないけど、兄さんも30歳になったんだし、『そういうコト』を真剣に考える時期でもあるんだよね。
こんなとき、9歳も年下の妹だというコトが、つらい。
年齢だけでなく、『距離』が離れていく。
存在が遠ざかる。
つらいよ。
× × ×
朝ご飯を食べ終えたあとで、母さんに、
「あのさ。兄さんの……」
と言いかけて、口ごもる。
ハッキリ言えない自己嫌悪。
わたしのココロの状態を知ってか知らずか、母さんは、
「さやか。お湯が沸いてるから、コーヒー飲めるけど、どうする?」
少し考えてから、
「飲む。」
と答える。
アツアツで真っ黒いコーヒーが手元に置かれる。
親友の某・羽田愛は、いつもこういうアツアツ真っ黒コーヒーを飲んでいる。
愛ほど耐性が無いわたしは、シュガーポットに手を伸ばし、苦さを軽減させようとする。
フーフーと冷ましてから口に含む。
まだ少し苦かった。
いつの間にか食器を全て片していた母さんが、
「そのコーヒーを飲んだら、シャッキリするわよ」
「そうだね……」
マグカップの中を見つめながら相づちのわたし。
そんなわたしに、
「シャッキリするし、ハッキリすると思うわ」
『ハッキリ』……?
「母さん、『ハッキリ』って、なにが? 主語は??」
顔を上げて視線を向ける。
でも母さんは、ニッコリニコニコかつ、無言。
× × ×
兄さんの得意楽器はハーモニカだった。
『デジモンアドベンチャー』というアニメがある。
ちょうど25年前の今頃に放映が開始された、東映アニメーションのテレビアニメだ。
もちろん、わたしが産まれる前のアニメである。だけど93年度産まれの兄さんは「直撃世代」だったから、昔っからわたしに熱く語っていた。
なぜかDVD化が遅れた『デジモンアドベンチャー』だが、青島家(あおしまけ)にはVHSビデオが全巻揃っていた。
どういう経緯で購入できたのかは別の話として、そのVHSビデオを兄さんはよく再生していて、熱く語りながらわたしにも見せていたものだ。
例えば、石田ヤマトくんのパートナーデジモンたるガブモン→ガルルモンが、ワーガルルモンに初めて『超進化』する回。
その回が終わったあとで、兄さんはビデオを一時停止させて、
『さやかはどう思った? どうしてガルルモンがワーガルルモンに超進化できたと思う?』
と訊いたりする。
わたしが、
『ヤマトくんの『友情の紋章』が発動したから』
と言うと、
『じゃあどうして友情の紋章は発動できたのかな』
と再度訊かれたりして。
答えを言い淀むわたしに、
『ヒント。この回の主役はヤマトだけど、もうひとり主役が居るよね』
『丈(じょう)くん?』
『そう。この回でヤマトと丈は、どう対立して、どう仲直りしたっけ?』
× × ×
『デジモンアドベンチャー』本編を観ていないと、分かりにくくて共有しづらい思い出話ではある。
兄さんのハーモニカは、石田ヤマトくんのハーモニカに影響されたモノ。
ヤマトくんは続編の『デジモンアドベンチャー02』でロックバンドを結成して、意外な人物と『おつきあい』を始めて、ハーモニカからかなり遠ざかっていく。
× × ×
兄さんのコトを想うと、もう自動的に、兄さんとほぼ同年代の荒木先生のことが、頭に浮かんできてしまう。
兄さんが結婚する可能性があるのなら、荒木先生にもやっぱり、そういう可能性が。
胃がチクチク痛んで、不安で背中が寒くなる。
大学から帰ってきて、ベッドに腰掛ける。
日没の時間帯。暖房をつけないと、冷える。
この日は気温がやや低め。いったん立ち上がって、エアコンのリモコンを操作する。
音楽が流したかったから、風量は弱めに。
CD棚から、はっぴいえんどの『風街ろまん』を取り出して、ラジカセにセットする。
『53年前にリリースされたアルバム』
事実の字面がスゴいと思う。
50年以上も前のJ-ROCK。もはや、古いとか新しいとか関係なくなる。
突き抜けて人口に膾炙した「風をあつめて」が部屋に響く。
わたしは「夏なんです」も「風をあつめて」と同じくらい好きな曲なんだけど、そんなことは今の問題と0.1ミクロンも関係が無くって。
……兄さんの結婚話でさみしくなるだけではなく、荒木先生の『現在の事情』のことで、こわくなる。
例えば。
街で偶然先生に出会ったとして、先生の薬指に指輪がはめられていたとしたら、わたし、その場で気絶してしまうかもしれない。
確実になにも手につかなくなる。
ネガティブに荒れまくる日々がしばらく続くだろう。そうなってしまうと、一緒に暮らしている両親に迷惑をかけてしまう。
取り乱さないための準備、なんて、思いつかない。思いつくわけもない。
カーテンの隙間に暗い夜が見える。
『風街ろまん』の再生が終わりかかっている。
「大瀧詠一さん、細野晴臣さん、鈴木茂さん、松本隆さん。……ごめんなさい。わたし、途中から、はっぴいえんどの演奏、『うわの空』だった」
虚空につぶやく。
両膝のすぐ上のあたりで手を組んで、カラダを丸める。