夜。
ダイニングテーブルで、お父さんと恒例のフランス語勉強会。
「よし! 順調ね。次からはもっと長いテキストを読んでみましょうか」
そう言うと、
「むつみ」
とお父さんに名前を呼ばれ、
「イキイキしてるな。良いことだ」
「そう? そんなにイキイキしてる?」
「ああ。やる気に満ち溢れてる感じだ。それと……」
お父さんの笑みがニヤリ、となって、
「イキイキしてて、なおかつ、ウキウキしてる感じだよな」
「な、なに、それ」
「絶対ウキウキしてるだろ。なんといっても、明日キョウくんに会いに行くんだから」
× × ×
言われた途端に上手く喋れなくなって、翌日の朝ご飯のときも、お父さんと上手く話せず、お父さんの顔も上手に見られなかった。
わたしコドモ過ぎる。23にもなって。
だけども気を取り直して、湘南地方に向かう電車に乗り込んだのだった。
車内でアルチュール・ランボーの『地獄の季節』を読んでいた。岩波文庫、小林秀雄の訳。
着実に春めいているので、『地獄の季節』なんてタイトルの詩集は似つかわしくないのかもしれない。ブックカバーもかけてないし。
でもまあ、なに読んだっていいわよね。
みんなスマートフォンに夢中でわたしの岩波文庫なんか気にも留めてないし。
ありがたいわ。
電車が快調に飛ばすなか、
『わたし、『地獄の季節』を最初に読んだの、いつだったっけ?』
と思った。
もちろん10代の頃であるわけだが……。
懸命に思い出そうとする。
……中等部の、3年生ぐらい?
とすると、14歳か15歳。
それもスゴいな。
我ながら早熟。
これに関しては自画自賛したい。
もっとも最初は難しい部分もあった。
それはそうよね。
フランス象徴詩的なモノが女子中学生に容易に理解できるワケも無いわ。
だけど、『地獄の季節』を何度か読んで、そこから、ヴェルレーヌだったりボードレールだったり別の詩人にも手を出していって、そしてマラルメに辿り着いた。そんな流れだったと思う。
となると、『マラルメの詩を最初に読んだのはいつだったのかしら?』という疑問が今度は出てくる。
もちろん初めっから原語で読めるワケでも無し。
たぶん、高等部時代だ。
1年生のときじゃないわよね。でも、卒業間際に読み始めたのでもない。
だったら高等部2年生のときよ。
高校2年かあ……。
わたし、その頃なにしてたっけ。
『地獄の季節』の文庫本を閉じて思いに耽っていたら、キョウくんの実家の最寄り駅に到着するというアナウンス。
降りねば。
× × ×
「昼になるまでまだ時間あるね」
「早起きだったし、早く電車に乗りたかったの。どうしてか分かる?」
「んんっ……」
ニコニコのわたしを真面目に見つめてきてくれる幼なじみの彼。
やがて照れくさそうに、
「おれに、早く会いたかったんだよね」
「ピンポンピンポンピンポーン」
「……元気だねむつみちゃん」
「あたりまえ」
もちろんキョウくんのお部屋で2人で居るワケである。
わたしはカーペットに両膝をつけて座り、キョウくんはベッドに着座。
幾度となく繰り返された構図だ。
照れくささを徐々に減らしていったキョウくんが、
「えっと、おれ、最近よく聴いてるアーティストがいて」
「あなたが音楽に凝るのも珍しいわね。どんなアーティスト?」
「YOASOBI」
ほほーーっ。
「やっぱり『アイドル』が好きな曲なの?」
「いや、『群青』かな。でもミーハーだよ。全部聴いてるワケではない」
優しい苦笑いな顔の彼は、
「むつみちゃん、YOASOBI、ピアノで弾けたりする?」
うぐぐっ。
「え、え、うろたえちゃってる!? マズいこと言っちゃったのかな」
「マズくは、ないけど。YOASOBIはあまりにも売れ線過ぎて、レパートリーになってないの……」
「ごめんよ。無茶な振りかただったんだな」
「謝る必要無いわよ」
YOASOBI。
まさに人気の盲点。
おそるべし。
× × ×
「努力不足でごめんなさいね。もっと自分のピアノを向上させていきたいわ」
「そんなに真面目じゃなくっても」
「根は真面目なのよ」
「それは理解してる。でも、不真面目なむつみちゃんのほうが、どちらかといえば……」
どんどんわたしの体温が上がる。
彼が『不真面目なほうが好き』と言おうとしてるから。
赤らめた顔を彼にさらしちゃってる。
わたしの顔が赤いから彼が喋るのを躊躇してるのは、明白。
無言沈黙状態になっているのはわたしも同じで、そうであるがゆえに、キョウくんの自慢の本棚に眼を逸らす。
自慢、というのは鉄道趣味自慢である。
約97パーセントが鉄道関連書籍の棚に注目して、今月号の時刻表を見つけるわたし。
座った状態のまま、するする……と本棚に近寄っていって、時刻表を抜き出してみる。
「エッ時刻表読みたいんだ、むつみちゃん」
「うん、そうなの……。不真面目になって、勝手に抜き出しちゃった」
「時刻表の読みかた、わかる?? おれたぶん、きみに読みかた教えてない」
「たぶんそうなのよね。長ーいつきあいであるにもかかわらず」
「……」とバツが悪そうなキョウくん。
わたしは愛情を籠めて、日焼け加減のキョウくんの顔を見て、
「せっかくだから、今教えてよ」
と言って、
「キョウくん、ベッドから降りて。わたしの隣に来てちょうだい」
恥じらいは隠せないけど直感が鋭い彼は、
「一緒に読むなら、隣同士のほうが、読みやすいもんな」
そうよ。そういうこと。
みっちりと時刻表を読む技術をレクチャーしてほしいわ。
至近距離で1冊の時刻表を2人で読む。
なんてステキなシチュエーションなのかしら……!