ヴィクトル・ユゴーの『エルナニ』を読んでいたら、電車が湘南の駅に着いた。
祝日ということで、キョウくんの家にお邪魔するのである。
× × ×
キョウくんがバイトを始めたらしい。
「横浜に、鉄道関係に強い書店があってね」
「そこで、バイトしてるんだ」
「――なかなか、たいへんだけどね」
「大丈夫? 疲れてるんじゃない?」
「疲れるんだよ、これが」
そうは言いつつも、キョウくんは笑って、
「でも、やりがいがあるから」
横浜か――。
親戚のおじさんが、住んでるな。
「――がんばってね、としか、わたし、言えないけど」
「そのことばだけで充分だよ」
「くれぐれも、無理しないでね」
「大丈夫さ」
そっか――。
バイト、か……。
キョウくんのベッドにわたしは座っている。
床に腰を下ろしていたキョウくんが、わたしが物思いを始めたのに気づいたらしく、
「むつみちゃん、どしたー?」
と気づかうように、訊いてくる。
「……キョウくんの、バイトの話を聴いて、」
「うん、」
「わたしもね、」
「うん、」
「わたしも……なにか、やらなくちゃいけないのかな、って思って」
「バイト――したいの?」
「だって、なにもやってないでしょ、なにもできてないでしょ、いまのわたし」
「そうかなあ」
「そうなのっ」
「――焦ってるんじゃない?」
「焦りもするよっ」
「まぁまぁ」
「……」
「マジメだね」
「キョウくんこそ」
「きみのほうが、ぜんぜんマジメさ」
「そんなことないっ!」
「――そうやって突っぱねるのが、もうすでにマジメだよ」
「そんなもの…?」
「うん」
「…キョウくんは、マジメに大学で勉強してるし、マジメにバイトまでしてる。なのにわたしは……」
「そうやって、思い詰めるところも――それはそれで、かわいいんだけどさ」
「……どうも」
「むつみちゃんには、やっぱり前向きでいてほしいよ」
「……なにか、動き始めたら、前向きになるかもしれないでしょ、それこそバイトとか」
「いますぐ結論を出す必要ないって」
「猶予(ゆうよ)があまりない気がするの。気づいたら、手遅れ――」
「思い込みだから」
「しゃ、社会は待ってくれない」
「それも、思い込み」
「きょっ、キョウくんは優しすぎるよっ」
「優しすぎるぐらいが、ちょうどいい」
ふと、窓の外を見て、彼は、
「海でも見に行って、気分転換しようか?」
「……寒い」
「きょうはそれほどでもないんじゃないの」
わたしは彼の枕をギュギューッ、と握って、
「キョウくんが寒くなくても、わたしが寒いの」
と、反抗するみたいに言ってみる。
珍しいわたしの反抗ぶりを意外に思ったような表情で、
「そりゃ……悪かったなぁ」
彼の枕を抱きしめたまま、む~~っとした表情を作って、
「まだ、冬でしょ」
「…たしかに」
「部屋でヌクヌクしたいの、わたしは」
「…そうしよっか」
「わかれば、よろしい」
ようやくわたしが柔らかい態度になったことに安堵(あんど)した様子のキョウくん。
照れまじりの表情で、
「――雑誌でも、読む?」
と言ってくるのが、微笑ましくて、愛(いと)おしい。
× × ×
あ~あ。
反抗期の15歳みたいになっちゃった。
反省しなきゃ。
――帰宅後、お風呂で汗を洗い流すついでに、ひとりぼっち反省会を開く。
マズかった。
キョウくんに対し、ワガママで、イジワルだった。
ふまじめ。
反抗期っぽかった。
「……わたしが反抗期のときは、もっと暴れてたけど」
湯船でポツリとつぶやく。
――荒れてるってレベルじゃ、なかったものね。
某・伊吹先生を、ビンタしたりとか。
先生に暴力ふるって、よくお咎(とが)めなしだったよね。
彼女が――伊吹先生が、優しかったんだ。
何年前だっけ、あれ。
今思えば、伊吹先生、わたしが余裕ないって、わかってくれてたんだな。
ああ見えて、生徒ひとりひとりのことが、見えてるんだ。
ああ見えて……。
「ごめんなさい、伊吹先生、ビンタして」
本日2回目の、お風呂でひとりごと。
今年度は、羽田さんのクラスの担任をされているとか。
羽田さんも、もうすぐ卒業だけど。
月日の流れは、あっという間。
× × ×
ダイニングテーブルで、お父さんが読書している。
正面の席に、そっと腰かけた。
お父さんは読書を中断して、
「どうしたんだ、ずいぶんとあらたまってるじゃないか」
「ごめん、せっかく読書してるところだったのに」
「べつに構わない」
お父さんが読んでいたハードカバーの背表紙を確かめて、
「お父さんは……ほんとに本が好きなんだね」
「……わかるか?」
「わかるよ。」
冗談めかして、
「お父さんの娘でよかった」
「なんだ、そりゃ」
苦笑いになって言うお父さん。
「――そこまでヨイショするってことは、お小遣いでも欲しくなったのか?」
「そんなワガママ言わないよ」
「けど、話はあるんだろう」
「話というか、訊きたいことというか」
「なんだ?」
「横浜の、おじさんのこと」
「また、なんで」
「お店――やってるでしょ? おじさん」
「やってるなあ」
「飲み屋さん、的な」
「ビアバー……っていったらいいのかな」
「――人手不足とかじゃ、ないのかな?」
お父さんはびっくりして、
「どうして――そんなこと訊くんだ」
「ほら、人手不足だったら――だれかが、手伝ってあげないと、じゃない?」
「人手不足であるかどうかは知らないが……手伝うって、まさか、むつみ」
「――手伝えるなら、手伝ってみたい」
びっくりにびっくりを重ねるお父さん。
「動きたいの、そろそろ。いつまでもこのままじゃ、お父さんだってお母さんだって気がかりでしょ」
「無理する必要はないんだぞ……むつみ」
「それ、何回目?」
イジワルにわたしは笑ってみせる。
「もう、充分に充電したと思うの」
お父さんが黙りこくり、考えにふけり始める。
「……やっぱり、急だったかな。動きたい、とか、いきなり」
「むつみ……」
「はい。」
「時間をくれないか」
「いつまで?」
「納得いくまで……考えさせてくれ」
× × ×
寝る前に、ダイニングをのぞいてみた。
お父さんが、まだ同じところに座っている。
お酒を飲みながら、考え込んでるみたいだった。
「おやすみ……お父さん」
わたしは、お父さんが好きだから、
いたわるように、優しさを「おやすみ」に込めて、
聴こえないところから、そっと、つぶやいた。