きょうは放送部室に行くつもりは無かった。
かがみさん他(ほか)、後輩に、羽田くん絡みのことでからかわれるのが怖いから……というのは、否定できない。
きのうも、かがみさんが、有る事無い事を言ってきた。
『放送部室に、羽田先輩が居ないより居るほうが、絶対に嬉しいですよね!?』
とかなんとか。
――彼が、わたしたちの部室に頻繁に出入りするようになってから、およそ1年。
彼の存在に慣れっこになっていたのは、事実。
あの空間に彼が居るということが、次第に、当たり前のことのようになっていった。
そして。
当たり前のことになる中で――楽しくなることも、しばしば、あった。
もちろん、楽しい思いばかりしているわけでは無かった。
楽しい、の反対のこともあった。
けれど。
振り返ってみれば――楽しい思いをすることのほうが、多かった。
明らかに、多かった。
楽しい時間が、それだけ多かったってことは――嬉しい気持ちになることも、少なくなかったということであって。
もっとも、嬉しさ、なんていうものを、明確に自覚していたわけでは無い。
だけど、『楽しい』には、『嬉しい』が、必然的に付随するもの。
だとしたら。
『羽田くんが居ると、嬉しくなる』
かがみさんの指摘する通りの結論に……至ってしまうことになる。
裏返せば。
羽田くんが居ないと……さみしくなってしまう。
そう。
わたしは、そういうわたしに、なってしまった。
……小さな不安が、ある。
それは、
『卒業してしまったら、羽田くんの居ない時間と空間が、ずっと続いていくことになる』
ということ。
そんなこと、当然といえば、当然。
なんだけど。
喪失、といったら大げさだけど……羽田くんが、わたしの眼の前から居なくなってしまうことに……不安というよりも、恐怖を覚えてしまうこともあったり、する。
恐怖、っていうのも、大げさなんだけど。
でも。
これが、恐怖心じゃないのだとしたら……どんなことばで置き換えたらいいの。
置き換えられない。わたし。
置き換えられないし。
こんなことを考えている自分が……自分で、恥ずかしくなる……。
『――猪熊さん?
そんなとこで、なに棒立ちになってんの』
羽田くんの声では無かった。
…羽田くんよりも、幾分「太い」声だった。
文武両道でその名を全校に轟(とどろ)かせている、元・陸上部の外江(とのえ)くん。
わたしは外江くんに声をかけられたのだ。
一瞬、反応できなかった。
ふらふらと歩いていたら、いつの間にか考えごとに溺れていて、しまいには棒立ちで、男の子には決して打ち明けられないようなことまで考えてしまっていた、わたし。
そんなわたしに、わたしは、戸惑って。
だから、反応が遅れた。
× × ×
外江くんは、理系クラス。
ふだんは近づくことの少ない理系クラスの教室まで、歩み寄っていたらしい。
廊下の窓から見える風景に眼を凝らしている。
凝らしているのは、わたしひとりでは無い。
右隣に外江くんが居る。
「……後ろの野次馬が気になるのなら、場所を変えるが」
「平気です。気になりません」
「……強いな」
「外江くんがさらに距離を詰めてきたって、別になんとも思いませんから。わたし」
「……たはは」
嘘はつかない。
嘘偽り無く、なんとも思っていない。
それに――これは、勘でしか無いけど――外江くんのほうも、わたしがこんなに間近に居たって、別になんとも思っていないんだろう。
ほかの女子ならいざ知らず。
「でも、猪熊さん。この光景が拡散したら、お互い、面倒になるんじゃない?」
「――気にしないわよ、拡散がなんだっていうのよ」
「あれっ、タメ口だ」
「悪いかしら」
「悪くはないけど、すごく珍しいじゃないか」
「…」
「珍しいパターンだね」
「…パターン、とか、そういう言い回しは、あまり好きじゃないわ」
「そうか。ごめんね」
「…」
「にしても」
「…なにかしら?」
「きみがタメ口なのも珍しいんだけど……。きみのその口調は、もっと物珍しいよ。語尾だとか、希少価値、ありまくりで――」
「――『誰かさん』と、似たようなことを言うのね……」
「――へっ??」
「男子って、なんでこうなのよっ」