昼下がり。『漫研ときどきソフトボールの会』サークル部屋。俺の右斜め前には幹事長の羽田愛さん、俺の真向かいには副幹事長の脇本浩平(わきもと こうへい)。
『ワッキー』というニックネームの卒業間際の副幹事長が、
「羽田さん。近い内に、副幹事長を誰かに引き継がなきゃいけないと思ってるんだけど……」
しかし幹事長たる羽田さんはワッキーの意向を無情にもスルーして、
「脇本くん。わたしはあなたに訊きたいコトがあるの。副幹事長引き継ぎ云々は今は忘れてくれないかな」
ワッキーは着席したまま仰(の)け反(ぞ)って、
「き、訊きたい、コト??」
「そーよ♫」
余裕たっぷりな幹事長女子は、
「市井(いちい)さん居るでしょ、市井さん。かつて、アルバイト先の古書店であなたと同僚だった女の子」
と言ってから、怯え気味のワッキーを直視して、
「連絡、取ってるでしょ? 市井さんと、今でも」
しかし、
「……」
とワッキーは羽田さんから若干視線を逸らし、沈黙。
「え!? もしや、互いに音信不通状態!?」
凄い勢いで言う羽田さんにワッキーはコトバを返せない。
「なんて不甲斐ないのかしら。一期一会の存在とも言うべきバイト仲間の女の子だったのに、コミュニケーションを断(た)ってしまうだなんて」
羽田さんもキツいなぁ……。ワッキーを泣かせないでくれよ?
「脇本くんに幹事長のわたしから指令。今日中に市井さんに連絡すること。メールでもLINEでも何でも良(い)いから」
俺は、ワッキーの震えを察知する。ワッキーの脚はこのポジションからは見ることが難しい。しかし、両脚はきっと震えっぱなし状態であることだろう。羽田さんの勢いと圧(あつ)が強過ぎるのだ。
――俺も、羽田さんやワッキーと同期なのである。ワッキーの震えも羽田さんの勢いと圧も見過ごせず、
「羽田さん。その辺(へん)にしてあげなよ。追い詰められ過ぎるワッキーを見るのは俺も辛(つら)いし」
言った途端に羽田さんが顔を俺に向けてくる。
完全無欠な美しい顔。しかし、眼は明らかに不満そうな眼だ。
誰がどう見ても美人な顔。そこに不満そうな眼つきという要素が加わる。ドッキリドキドキとしてしまうのを俺は抑え切れない。
ワッキーのみならず、俺すらも追い詰めていくつもりなのだろうか?
思わず縮こまり、眼前(がんぜん)に置いたスケッチブックを見つめてしまう。
その時、状況を変化させる『音』が響いた。
俺のスマートフォンから鳴り出される、バイブレーション混じりの着信メロディだった。
× × ×
サークル部屋から出ていく瞬間、羽田さんに『マナーモードにしておきなさいよ!!』という捨てゼリフを吐かれた。
……それはいいとして、現在、文学部キャンパスのとある一角に俺は立っている。
大学生協からやや離れた所にある、手入れのされていない空き地の如(ごと)きスポットだ。
立っているのは俺だけではない。
向かい側に女子学生が立っている。
大井町侑(おおいまち ゆう)さん。
第二文学部でたいへん優秀な成績を収めている女子だ。今日も黒髪のストレートヘア。今日もぴっちりとしたジーンズ。
ただ、全体的にご機嫌斜めな状態に見えるのが俺には気になった。
「……呼び出すの、早かったね」
と俺。
「バイトが早く終わったのよ」
と大井町さん。
「……良かったね」
「良かったばかりじゃないわ。急いで作業を終わらせたから、いつもより疲れちゃった」
『いつもより疲れちゃった』と言う時の言い方に、普段の彼女とは違うコドモっぽさが顕(あらわ)れていた。
「今日は授業を受ける必要が無いから、そういう面では負荷はかからない。だけど、授業に出なくても良いからといって、わたしの疲れが完全に癒やされるわけじゃない」
ざくっ、と地面を踏んで彼女が近付いてくる。
「クタクタなのよ。新田くんならば、この疲労感、感じ取ってくれるわよね?」
ええっ……。
そんなことを言われたって。困るよ。困っちまうよ。
大井町さんの立場になり、バイト上がりの疲労感を、想像し、共有する……まるで、難易度がHARD(ハード)モードのゲームみたいだ。
俺には難しい。だから、正直に、
「ちょっと、難しいかな。俺はきみでは無いんだし」
しかし、正直に受け答えたのがマズかったのだろうか、より一層距離を詰めると同時に、ムッとした視線を差し込んできながら、
「なにそれ!? 共感するつもりが無いってワケ!? まさか、『男子には女子の苦労を想像するのは難しい』とか思ってるんじゃ無いでしょーね!?」
俺は慌てて、
「それは考えが飛躍し過ぎてるよっ。男子と女子の違いとか、そーゆーんじゃ無くってね」
「120%煮え切らないわね、あなたって」
不機嫌さの込められた声をぶつけられてしまう。
俺は焦り始めていた。
なぜなら、大井町さんが、俺に対し、距離を詰めまくっているから。
焦りが絶賛急上昇中の俺。
そんな俺に、
「こうすれば、あなたの煮え切らなさも払拭されるのかしら」
なる不可解なコトバを大井町さんが零(こぼ)す。
そしてそれから、
「頼らせてよね」
というコトバと共に、彼女は彼女の上半身を前方に傾かせていく……!
俺の胸に、大井町さんの頭部の感触。
『こつん』という音がしたかどうかは判然としないが、大井町さんが大井町さんの頭を俺にくっつけてきた、という確かな事実があって、それで……!!
「あなたにオデコとかひっつけるのも初めてなら、あなたに密着することで疲れを癒やそうとするのも初めてだけど」
トゲトゲしさ皆無なふんわりとした声で、
「想像以上に、落ち着くわね。……ねえ、あなたの身長って、173センチか174センチでしょ」
「よ、よ、よく分かったね。す、す、推理力、凄いんだね」
「4年間も同じキャンパスと同じサークルの空気を吸ってるんだから、推理力も冴えるわよ」
「……きみは? きみの方は? きみの身長……は」
「……どうだったっけ」
「!? な、なんで、俺の背丈を把握してるのに、自分のコトは分かんないの」
密着のまま、彼女は少し間(ま)を置いてから、
「160か、161よ。愛とほとんど同じ背丈」
「あー……。言われてみれば。羽田さんときみ、体型ほとんど違わないもんね」
ここで、彼女の頭部が俺から離れた。
それから、いったん俺から離れた彼女は、視線を斜め下に逸らし、
「『体型ほとんど違わない』だとか、ほんっとにデリカシーの無いコトを言いまくるのね、あなたって。事実を言ってるから、余計にムカつく。」
と、不満顔で、不満を表明した。
仄(ほの)かな赤みが浮かんでいる不満顔だった。