バルザックの小説を読んでいたら、電車が湘南の駅に到着した。
キョウくんの実家がある街だ。
× × ×
「よく来たね、むつみちゃん」
出迎えてくれるキョウくん。
「お邪魔するわね」
海が見えるキョウくんの家の、キョウくんの部屋にお邪魔する。
「くつろいでいってよ」
「じゃあ遠慮なくくつろぐわ」
ぺたん、とその場に腰を下ろす。
「今日から11月ね」
「あー、そうなんだった」
え。
もしかして、認識してなかったの、キョウくん。
「だいじょうぶ? 日付の感覚、狂ってない?」
大学生になって、時間感覚がルーズになってるんじゃ……。
「平日に大学に行かなくてよかったりするからね。だからかもしれないな」
と答えるキョウくん。
「…わたし、朝に強いわけではないけれど」
「ん?」
「モーニングコール……してあげたほうがいいかしら?」
「んーっ」
微妙な反応だ。
「ほら、朝寝坊して、大学に遅刻したらたいへんでしょう」
「それもそうだ」
「あ、あなたの問題なのよ」
「自分でなんとかするべきだけど、きみが電話してきてくれるのはうれしい」
「どっちつかずね」
「電話で起こしてもらうに越したことはないけど」
「……じゃ、こうしましょう。キョウくんに大学の時間割を教えてもらって、朝から通学しなければいけない曜日にわたしがモーニングコールする」
で、時間割を見せてもらう。
「まるまる2コマ空(あ)いてる時とかあるのね」
「そんなもんだよ。1コマ90分だから、3時間なにもないんだ」
「――そういう時は、どうするの?」
「自習とか。あとは、公園で日なたぼっこ」
「――大学生っていいわね」
× × ×
わたしからモーニングコールしてあげる曜日が決まる。
「とりあえず、ちゃんと電話に出てね」
「うん」
「……話は違うんだけどさ」
「なぁに」
「わたしの誕生日、おぼえてる?」
もしかしたら、他人(ひと)の誕生日をおぼえられないタイプなんじゃないかと心配だったが、
「今月の21日だよね? 11月21日」
幸い、彼は即答してくれる。
「おぼえててくれてありがとう」
「おぼえてるよ。むつみちゃんのことなんだもの。誕生日は大事だよね」
「もういくつ寝ると、ハタチだわ」
「そっかー、ハタチか」
「とうとう、20代になっちゃうのか、って感じ」
「できることが増えるね」
「そんなに増えるかなあ」
「たとえば――――馬券が買えるじゃないか」
「そ、そこ!??!」
「今日も、大きなレースがあるんじゃなかったっけ?」
「よ、よくご存知で」
「きみの好きなことぐらい把握してるよ」
デアリングタクトとコントレイルの効果なのかしら。
「――そうなのよ。例によって、フジテレビで3時から」
「天皇賞、だったっけ?」
「そこまで把握してくれてるのね、うれしい」
「どこで走るの?」
「東京競馬場。府中にあるの」
「あ、そうか。競馬場線ってあったよね。東府中で乗り換えるんでしょ」
「さすがキョウくんね……京王だけじゃなくって、JRの武蔵野線でも行けるんだけど」
「府中本町でしょ」
「さすが……すぐ駅名が出てくるんだ」
天皇賞が年2回だとか、軽くマメ知識を教えてあげたところ、
「むつみちゃんいつも1人で観てるけどさ、今日はおれも一緒に観てもいいかなあ?」
「興味あるの?」
「いや、興味というかさ、1人よりも2人で観たほうが――もっと楽しくなるんじゃないかと思って」
「たしかにそれはあるわね」
「OKってこと?」
「もちろんよ」
「どんな馬が強いの?」
「――強い馬が勝つとは、限らないのよ」
「!?」
「ご、ごめんごめん変なこと口走って。アーモンドアイっていう馬が、断然の人気ね。今回のメンバーだと、少なくとも実績に関しては最強――」
「オス馬?」
「違うわ。メス馬なのよ」
「へぇ~っ」
予想通りの反応。
牡牝(ぼひん)の差が逆転することがあるって、競馬知ってない人には意外な事実よね。
ウオッカやダイワスカーレットのこととか、ブエナビスタジェンティルドンナリスグラシューそのほか諸々…について語りだしたら止まらなくなっちゃうので、ひとまず、
「今回の天皇賞は、1番人気も2番人気もメス馬…牝馬(ひんば)なの」
「なるほど~」
「2番人気はクロノジェネシスっていう馬。宝塚記念っていうG1レースで、男馬を蹴散らしたの」
「ジーワンっていうのは…」
「いちばん格上のレースよ。鉄道でいうと新幹線、みたいなものかしら」
喩(たと)えがあんまし上手くなかった気もするが、
「ヒエラルキーの頂点、ってことかぁ」
「わかってくれる!?」
「個人的には新幹線よりも在来線だけどね」
「――天皇賞・秋も、もちろんG1よ」
八大競走うんぬん言い出したら際限がなくなるので、ここは省略。
「あとはスカーレットカラーが牝馬ね。残りは牡馬(ぼば)――と言いたいところだけど」
「だけど??」
「…ダイワキャグニーっていう馬だけ違うの」
この話、してもいいんだろうか。
「え、どゆこと」
「んっとね……詳しくは、『セン馬』でググってみて」
「なんでそんな恥ずかしそうになってるの??」
「……」
「ま、まあ、『繁殖(はんしょく)』ってのは、避けて通れない問題なわけであって」
「なんだか競馬講座みたいになってきたね」
「この際だから競馬講座にするわ」
……あたたかく微笑するキョウくんに、
「春の天皇賞を勝ったのがフィエールマンで、今日勝てば、春秋(しゅんじゅう)の天皇賞連覇ね」
「その年の天皇賞をふたつとも勝つってことだね」
「なかなかそれが難しいのよ」
「どーして?」
「…距離が大きく違って。今日の天皇賞・秋は2000メートルだけど、春の天皇賞は3200メートルもあるの」
「春のほうは長距離なんだ」
「そうよ。……鉄道で喩えるならば、ブルートレイン、かしら?」
「わかるよ。ブルートレインもうないけど」
「ないっけ??」
「代わりにサンライズだなあ」
……深くは追及しないでおこう。
「それでね。今日勝ったらフィエールマン『も』偉業達成なんだけど、人気が落ちてるわね、4番人気ぐらい」
「フィエールマン『も』ってことは……」
「アーモンドアイにはもっと凄い記録がかかっているの」
「ふむふむ」
「今日アーモンドアイが勝ったら、G1通算8勝で、新記録なのよ。これまでG1を8勝した馬はいないの」
ホッコータルマエとか持ち出していたら、日が暮れてしまうので、触れず。
「ディープインパクトが、何勝?」
「通算7勝。7勝がこれまでの最高なのよ」
「未知の領域ってことかー」
「まさに、ね」
「ほかに、注目の馬は?」
「キセキが勝つと3年ぶりのG1制覇。まさに奇跡ね」
「うまいこと言うね」
「ウマだけにね」
「座布団あげたい」
「……武豊って知らない?」
「騎手でしょ?」
「あー、よかった」
「一般常識的なもんでしょ」
「キセキの鞍上……つまりキセキに乗る騎手が、武豊」
「なるほど!」
「あとは――ダノンってヨーグルトがあるの、知らない?」
「ヨーグルト?」
「ダノンプレミアムっていう馬とダノンキングリーって馬が出るんだけど――」
「ダノンプレミアム、ってヨーグルトはいかにもありそうだ」
「やっぱりそう思う?」
「うん。」
「…実際にそんなヨーグルトがあるかどうかは別として。ダノンプレミアムは近況不振。ダノンキングリーも、わたしの予想以上に人気していて、美味しくない」
「美味しくない???」
「その……、ヨーグルトは……美味しいに越したことないでしょう」
「えーっときみの誕生日は」
「そうよ、まだ先よ、ハタチになってないんだから、配当妙味とか言っちゃほんとうはダメなのよ」
「いろいろあるんだねー」
「えーーーっと、あとは、あとはね、」
「焦らないで」
「はい。」
『ブラストワンピースは有馬記念を勝ってるけど人気がない、ウインブライトは海外のG1を勝ってるけどまったく人気がない』という話を手短にした。
「カデナは、馬名の意味がフランス語で『南京錠』だっていうのを記憶に留めておけばいいわ」
ノースヒルズの皆さん、すみません。
コントレイル、おめでとうございます。
「あとは……ジナンボー、か」
「ジナンボー!? すごい名前だね~、またまた」
「ちゃ、ちゃんと由来があってね、」
そこ食いつくんだ、キョウくん。
「アパパネってのもまたすごい名前だな~」
「噛んじゃいそうな馬名でしょ? でも、アパパネって戦績もすごいのよ、三冠牝馬なの。さらには、ジナンボーのお父さんディープインパクトだから――」
「だから?」
「ジナンボーは両親が三冠馬だってこと」
「それってどんだけすごいのかな」
「とにかくすごいのよ!!」
「――すこぶる元気だね今日のきみは」
「でもほんとうのほんとうにすごいのは、ジナンボーの馬主なのよ」
「だれ?」
「金子真人(かねこまこと)さん。競馬史上もっとも成功した馬主といっても過言ではないわ」
「どっかの経営者?」
「……あなたの大先輩よ、キョウくん」
「マジ」