西田幾多郎 善の研究 拾い読み

 世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はこうしなければならない、ここに身を落ちつけなければならないという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。たとえば高尚な精神的要求を持っている人は唯物論に満足ができず、唯物論を信じている人は、いつしか高尚な精神的要求に疑いを抱くようになる。元来真理は一つだ。知識においての真理は直(ただち)に実践上の真理で、実践上の真理は直に知識においての真理でなければダメだ。深く考える人、真摯な人は必ず知識と「こころ」との一致を求めるようになる。「オレたちは何をやるべきか、どこに居場所を求めるべきか」、そんな問題を論じる前に、まず世界と人間の真相はなんなのか、真の実在とはなんなのかを明らかににしないといけない。

 

 今もし真の実在を理解し、世界と人間の真実を知ろうと思ったなら、疑えるだけ疑って、すべての人工的な仮定から離れ、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を根っことして出発しなきゃならない。私たちの常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心という物があって色々な働きをするように考えている。またこの考えがすべての人の行為の基礎ともなっている。しかし物と心の独立的存在などということは我々の思惟の要求によって仮定しただけのことだ。いくらでも疑えば疑える余地があるのだ。そのほか、科学というようなものも、何か仮定的な知識の上に築き上げられたもので、実在の最も深い説明を目的としたものじゃない。またこれを目的としている哲学の中にも充分に批判的でなく、今までの仮定を基礎として深く疑わないヤツが多い。

 

 それならば、疑うにも疑いようのない直接の知識とは何か。それは、ただ私たちの直覚的経験の事実、つまり意識現象についての知識以外の何ものでもない。現前の意識現象とこれを意識するということとは直ちに同一であって、その間に主観と客観とを分けることもできない。事実と認識の間に少しも間隙がない。真に疑うに疑いようがない。勿論、意識現象であっても「これを判定する」とか「これを想起する」とかいう場合では誤りに陥ることもある。しかしこれはもはや直覚ではない。推理だ。後の意識と前の意識とは別の意識現象である。直覚というのは、後者を前者の判断として見るものではない。ただありのままの事実を知るものだ。間違えるとか間違えないとかいうのには意味がない。このような直覚的経験が基礎となって、その上に私たちのすべての知識が築き上げられなければならない。

 

 意識上における事実の直覚、つまり直接経験の事実をもってすべての知識の出発点とするのとは反対に、思惟をもって最も確実な標準とする人がある。これらの人は物の真相と仮相とを分けて、私たちが直覚的に経験する事実は仮相であって、ただ思惟の作用によって真相を明らかにすることができるという。勿論、この中でも常識または科学というものは全く直覚的経験を排するものではない。でも、ある一種の経験的事実をもって物の真となし、他の経験的事実をもって偽となすのはどうなのだろうか。たとえば星々は小さく見えるが実際は非常に大きいものであるとか、天体は動くように見えるが実際は地球が動くのであるというようなこと。しかしこんな考えは、ある約束のもとに起こる経験的事実によって他の約束のもとに起こる経験的事実を推量することから起るものだ。各々その約束のもとでは動かすことのできない事実である。同一の直覚的事実なのに、なぜその一つが真であって他が偽なんだろう。こんな考えが出て来るのは、触覚が他の感覚に比べて一般的なおかつ現実で最も大切な感覚なので、触覚から来るものを物の真相とするからだ。少し考えてみれば直ちにそれが首尾一貫しないことが明らかになる。ある一派の哲学者に至ってはこれとは別に、経験的事実をもって全く仮相となし、「物の本体はただ思惟によってのみ知ることができる」と主張する。しかし仮に私たちの経験のできない超経験的実在があるとした所で、こんなのがどうやって思惟によって知ることができるんだろう。私たちの思惟の作用というのも、やはり意識において起こる意識現象の一種であることは誰も否定できないはずだ。もし私たちの経験的事実が物の本体を知ることができないなら、同一の現象である思惟も、やはりこれができないはずなのだ。ある人は思惟の一般性と必然性をもって真の実在を知る基準とするけど、これらの性質もつまり私たちが自分の意識の上で直覚する一種の感情であって、やはり意識の上での事実なのだ。