こんな豪邸がホントに在(あ)るなんてな。住む世界が違ってるんだな。愛さん、あんたは『違わないわよ~』って言うかもしれないけど。
天井が果てしなく高いから未(いま)だにビビってるんだよ。しかも、俺と愛さんが今いるこのリビング、この邸(いえ)でいちばん大きいリビングなワケじゃないんだろ? ちょっと信じらんねーな。建物の中に入ってからこっちはぶったまげ通(どお)しだ。
……一刻も早く『本題』に入りたいって顔だな。
だが言わせてくれ。先ほど、あんたの彼氏サンである戸部アツマさんのお母さんの明日美子(あすみこ)さんに昼食を振る舞われたんだが。ちょっと衝撃的だったんだよ。……いや、『ちょっと』は要らないな。衝撃的のヒトコトだった。だってよ、『こんなに美味い料理を作れる人間がこの世界にいるだなんて……!!』って思っちまったんだぜ? 俺みたいにひたすら料理の修行してそれなりに長い間現場で働いてるワケでもないのに、なんであの女性(ヒト)はあんなに美味いポークソテーを作るコトができるんだ。今でも、自分自身がちっぽけな存在だという挫折感が残ってる。世界は広いから、これからも明日美子さんみたいな『凄腕の素人』と出会うんだろうな……。
――そうか、『井の中の蛙(かわず)』ってコトバがあるんか。そういう格言的なコトバがパッと出てくるとこが、あんたの賢さなんだろうな。謙遜しちゃ困るぜ。
……やっぱし、とっとと『本題』に入りたいか。前のめり姿勢になり続けてるもんな、あんた。
分かったよ。愛さんの期待に応えてやるよ。愛さん言ったよな、『このリビング付近には誰も近付かせないから。前もって、この時間帯は『近付かないように』、って住んでるメンバー全員に伝えておいてあるから。プライバシーは守られてるんだから、『ありのまま』をあなたに伝えてほしいわ』、こんな風に。
だったら『ありのまま』をこれから話すよ。先日起こった、古木紬子(ふるき つむぎこ)との◯◯な件の、一部始終を。
× × ×
気付いたら古木紬子が厨房の前に立ってた。厨房の奥で作業してたから立ってたのに気付くのに時間がかかった。長期休暇突入後だったからカフェテリア付近に人も疎(まば)らだったし、開店時刻前から厨房の前に立ってやがる古木の姿はひときわ目立ってた。……ほら、あの女、なんだかんだでキラキラしてるだろ? 大企業の社長令嬢的な『キラキラ感』というか……。ダメだな、巧く説明できねーな。とにかく、不覚にも、厨房の間近の古木を見て驚いて、立ち止まっちまってマトモに奴(ヤツ)と向かい合っちまった。
眼と眼が合ったのが古木にとっても不覚だったようで、派手に視線を逸らされた。その時、アイツの顔がジンワリと赤くなってきてるコトに気付いちまったから、俺は棒立ちになりそうになる寸前になっちまった。
だけど俺は踏みとどまって、
「開店前にやって来た理由はなんだ。15秒以内に教えろ」
と要求した。
そしたら、アイツはほんとーにほんの少しだけ視線を寄せ、赤くなった顔のままで、軽く染めた髪を手櫛(てぐし)でサラサラと撫でるという不可解な仕草をしたかと思えば、盛大に息を吸い込み、その後で、
「及川(おいかわ)くん。あなたとの『最後の勝負』がしたいのよ」
と言ってきた。
「『最後の勝負』? なんだそれ」
謎のコトバを吐きやがったからおかしな気分になっていきそうだった俺に、
「ふざけないで。ふざけないでよ」
と、古木の喚くような声が飛んできた。
矢継ぎ早に、
「あなたも卒業式の日(ひ)にちぐらいインプットしてるでしょう? あなたの作る料理に挑めるのは、もう今日ぐらいしか残されてないのよ。というか、今日しか残ってないの。だから、『最後の勝負』だというコト。今日、あなたに真っ向勝負ができなかったのなら、私、私、きっとゼッタイ後悔して、社会人になってからもずっと引きずって……!!」
古木の様子がこれまでと明らかに違っていたから、思わずたじろいだ。たじろぐ俺のココロに古木の感情が徐々に染み込んでいくのを感じた。
戸惑った俺は、腕を組みながらも、真向かいの女から視線をやや逸らし、『どうしたものか。どうするべきか』と思った。
『最後の勝負』の意味合いが徐々に俺の中に浸透してきた。あんたもご存知な通り、丸4年間に渡って、『俺が料理を作り、古木がその料理を食べ、俺が古木を打ち負かして古木が俺に打ち負かされたり、あるいはその逆の結果になったり……』っつーコトを繰り返してたワケだ。
次第に古木の方が『打ち負かされる』ケースが目立ってきたように思うが、古木は頑として俺の料理を『美味しい』とは言わなかった。
……で、厨房に向けて視線を逸らしつつ、俺、その時思ったんだ。
『古木に『美味しい』と言わせないまま終わるのは、俺、悔しいし、イヤだな……』
こんな風に。
「どうしてそんなに考え込むのよ。ココロより手が動くのがあなたでしょう、あなたらしさでしょう? もしや、『最後の勝負』と言われて怖気(おじけ)づいてるんじゃないでしょーね!? 『屈服させたい』ってキモチで向かってきなさいよ。そうじゃなきゃ、開店時刻になっても私ここから一歩も動かない。……手を動かしなさいよ、早く動かしてよ」
『早く動かしてよ』と言った声に哀しみのようなモノが込められてる気がして、ドキリとした。視線が古木の方角に再び戻った。
「3分だけ時間をくれ。『最後の勝負』のメニューを考える」
それから俺は言っていた。古木に、古木のために、そう言っていた。
× × ×
【玉子丼】。
俺が『最後の勝負』に選んだのは、これだった。
親子丼でもカツ丼でもない。鶏肉やトンカツで誤魔化せない。難易度の高い料理だと思う。腕を誤魔化せない料理だと思う。
シンプル・イズ・ベストじゃねーが……古木を唸(うな)らせ、『美味しい』と言わせるには、相応しいのは玉子丼ではないかと、そんなインスピレーションが働いたんだ。
湯気の立つアツアツ出来たての玉子丼を、テーブル席についている古木に差し出した。
匂いに古木の嗅覚が敏感に反応したんだろう。美味さの根拠となる匂いだったから、古木は一気に真剣な顔つきになった。
レンゲを取り、玉子丼を掬(すく)い、かすかに冷ました後で、口に持っていった。
一口(ひとくち)で古木は察したらしかった。察して、悟ったらしかった。
最後の最後で、これまでに無い本気を、示され、ぶつけられてしまった……そんな事実を。屈服するしかない。屈服するのは悔しい。22年間の人生で一番悔しいコトかもしれない。だけど、悔しさと同時に、この玉子丼の素晴らしさのおかげで、カラダとココロに、優しくてあたたかいモノが満ち溢れようとしている。
古木紬子の、一口食べた後の表情から、そんなコトを俺は読み取った。
だから、敢えて、
「手を止めてほしくないんだが。丼(どんぶり)モノは冷めると一番ダメになる」
と突っついてみた。
その途端だった。突っついたその瞬間に、だった。
「おいしい」
古木の口から、コトバが聞こえてきた。とうとう古木紬子が俺に対して「おいしい」と言った。
不思議と、『勝利』による喜びや嬉しさや爽快感は薄めだった。
だけど、代わりに、穏やかなモノが俺の内部から立ちのぼり、俺のカラダとココロを満たしていく……そんな実感があった。強い実感があった。
その『実感』のおかげで、なんだか、『古木紬子というオンナのコトを許してやれる気がする』みたいな、そういう感情が到来してきた。
古木の目尻(めじり)にジンワリと涙が産まれていた。
古木紬子は、泣きながら、泣き通(どお)しで、玉子丼を口に運び続けた。