また文字を書き間違えてしまった。水性ボールペンの文字に消しゴムをこすりつける。
『本番』では文字を書き直すワケにはいかないので、少し不安になる。
漢字を書こうとして、正しい書き方を思い出せなくなってしまう。姉から譲り受けた漢和辞典を机の中央付近に引き寄せ、問題の漢字を引いてみる。
ぼくの手紙は前途多難だ。
漢和辞典を参考にして漢字を記したあとで、水性ボールペンを置き、溜め息を吐き出す。
こんな調子で、ぼくはぼくの手紙を仕上げられるのだろうか。
仕上げなければいけないのは分かっているんだけど……。
× × ×
既にとっぷりと暮れている。カーテンに覆われている窓の向こうには5月の夜空が広がっている。
机上の置き時計を見てみる。
間近の部屋のあすかさんは、今、何をしているのだろうか。
眠りに向かうには少し早い時間帯のようにも思える。
ただ、彼女にとっては、今の時間帯が、眠りの世界に入っていくのにちょうど良い時間帯なのかもしれない。
なぜなら、明日明後日、すなわち土曜日曜と、彼女は朝早くから「仕事場」に向かわないといけないからだ。
1時間半ほど前、この階(フロア)の渡り廊下で、あすかさんから、
『わたし、今晩はもう自分の部屋に引きこもって明日に備えるから、20時以降はノックしてこないでね』
とお願いされた。
『20時は、少し早いのでは?』
ぼくが疑問を示したら、
『中央競馬担当記者の土日を甘く見ないで。絶対に早起きしなきゃいけないんだから。日の出と同時に朝ごはん食べるぐらいじゃないといけないのっ』
『ですが、邸(ここ)から東京競馬場までは、とても近いんですし……』
『利比古(としひこ)くんは何にも分かってないねえ』
厳しい眼つきになって、1つ年上の彼女は、
『来年あなたが社会人になったら、『スケジュールの厳密さ』ってのを理解しなきゃならなくなると思うよ』
と言い、それからすぐに、彼女の部屋のドアまで歩を進めていったのだった。
× × ×
机上の置き時計の左横に立てている小型カレンダーに眼を凝らしてみる。
このまま何事もなければ、5月31日が、東京優駿(とうきょうゆうしゅん)……すなわち日本ダービーの開催日となる。
中央競馬担当記者になった女子(ヒト)とひとつ屋根の下で暮らしているのだから、今年の日本ダービーの開催予定日をインプットしていないワケがない。
そしてぼくは、競馬の祭典当日の5月31日を、ぼくの手紙を仕上げる期限に設定している。
5月最終日というのに加えて、競馬関係者にとって最も重要な日付であるというのも、期限に設定した理由になった。
もっとも、ぼくは当然、競馬関係者でも何でもない。
だけども、競馬関係者の1人であるあすかさんと深く関わっている人間なのだから、日本ダービーの日付を意識しないワケにはいかなかったのだ。
机上の小型カレンダーの5月31日は赤丸で囲まれている。赤いサインペンで囲った時のぼくの右手指にはかなりチカラが入っていた。
『チカラが入らないワケ、ないよな……』
手紙の下書きを中断しているぼくは、小型カレンダーの5月31日の赤丸に視線を差し込みつつ、胸の奥で呟く。
いろいろな時に、いろいろな所に、チカラが入る。
チカラが入るだけじゃダメなのは、分かっている。
ココロを籠めて、しかるべき女子(ヒト)に手紙を書かないといけないのだから。
今のぼくは、ココロを籠める前の段階に過ぎない。
チカラは入るが、ココロの正しい籠め方は、まだ分かっていない。
正直、焦りはある。
ゴールデンウィークが終わる頃には、ココロを籠める準備が整っていないといけない……そう思う。
でも、強く意識すればするほど、余分なチカラが心身のあちこちに混入してきて、ココロを籠める準備から遠ざかっていく。
× × ×
クールダウンのために、ベッドに腰掛けて、タブレット端末を両手で持ち、Wikipediaの中を探検している。
英語版Wikipediaの記述を読み取るのにもっと集中したくて、エアコンのリモコンを手に取り、設定温度高めの冷房を起動させる。