【愛の◯◯】わたしの背中におとうさんの背中

 

わたしの母は「心(こころ)」という名前だ。わたしの「愛」という名前の中に、「心」という文字が入っている。どうしても自分の名前を入れたかったらしいけど、母の名前がわたしの名前に入り込んでいるのを意識すると、フクザツな気持ちになってしまう。

 

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おとうさんの帰りを今か今かと待っているのだ。日曜の夕方、『笑点』がもう少しで始まる時間帯。帰国した両親が住んでいる一戸建て。弟の利比古が用事で今夜来られないのは残念だけど、おとうさんが帰宅したらすぐに回らないお寿司屋さんに行くことになっていて、とても待ち遠しい。

「なんだかポワ〜ンとした顔してるわね、愛」

ちょっとなによ、お母さん。

ポワ〜ンって、なに!?

苦々しい気持ちになるわたしに、

「お父さんが帰って来るのが、ほんとうにほんっとうに待ち遠しいって表情じゃないの」

という鋭利な指摘。

ココロを読まれた……!!

「心」って名前だから、ココロを読むのが得意なの!?

 

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「お店で好きなネタのお寿司ばっかり注文しちゃダメよ〜」

母娘2人きりで向かい合って話すのに耐えきれず、席を立ってダイニング・キッチンから逃避したわたし。そんなわたしを、真横からからかってくる母。

「まさかわたしがハマチを10回連続で注文するとか思ってるんじゃないわよね!?」

怒りのヒトコトで母に対抗し、母の顔を一切見るもんかと決めて、本棚を凝視する。

もちろんこれは両親の本棚。どちらがどちらの所有物なのかはハッキリしない。本棚の中にわたしの愛読書を見つけて、それがおとうさんの所有物だと分かるのを夢見るばかりだ。

わたしの愛読書やおとうさんの趣味が滲(にじ)み出ているような本がなかなか見つからなくて少し焦る。不安混じりの期待を込めて、岩波文庫の「青」が横一列に並んでいるブロックに視線を寄せる。すると、トマス・アクィナスの『神学大全』とフロイトの『精神分析入門講義』が眼に飛び込んできた。

哲学専攻的女子大学生のわたしはトマス・アクィナスフロイトに飛びつき、『神学大全』と『精神分析入門講義』を1冊ずつ引き抜く。

それから、

「お母さん? わたし、この2冊を読みながら、おとうさんを待つわ」

と、ちゃんと顔を見てあげながら、宣言。

しかし、

「えええ〜〜っ」

と、母からは間の抜けたリアクション……。

続けざまに、

「そんなにマジメな本、読み耽っちゃったら、お寿司屋さんに行く前に消耗しちゃうでしょー??」

わたしの右拳にチカラが入り、

「消耗なんかしないからっ!! たぶん!!」

「あのねえ、愛ちゃん」

不可解に不可解の重なる「ちゃん」付けを喰らい、右拳を強く握り締めると同時に混乱してくるわたしに、さらに、

「そもそも、その2冊、所有権はわたしにあるんですけど」

お母さんの……所有物……!? おとうさんの……モノでは無く……!?

そんな……。

「あれっ」

耐えられないほどに軽快な声で母は、

「なーんかあなた、涙目っぽくなってない? ウソ泣きしてまで、その2冊が読みたかったってワケ?」

わたしはすぐさま母に背中を向けて、

「もう知らないっ。スコラ哲学も無意識もどうでもいいっ。お母さんの本なんか読みたくないもん。2階の空き部屋で、孤独におとうさんの帰宅を待ってる……」

「愛ちゃ〜ん♫」

「ちゃん付けなんて、最低ッ!!!」

「お母さんには分かるのよ〜。今のあなたの反抗的な色に染まった顔が、最高にカワイイってこと。もともと非の打ち所がないルックスに、『終わらない反抗期』みたいなカワイさがプラスアルファで加わっていて、それはもう……!!」

 

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「愛。入るぞ」

2階の空き部屋に逃げ込んだわたし。カラダを最大限丸めて塞ぎ込んでいるわたし。いつの間にか帰宅して2階に上がってきたおとうさんの声が、わたしの背中に降り注ぐ。

足音。スイッチを押す音。明るくなった部屋の中で娘と父だけが居る。おとうさんの接近を自分の背中に濃厚に感じ取る。おとうさんから次に発せられるコトバが怖かった。

「いつまでもそんなに塞ぎ込んでないで、早く寿司を食いに行こうぜ? おれ、腹がペコペコなんだよ」

着替えているところを異性の家族に見られた直後の14歳の女の子みたいな弱々しき声で、

「5分間ぐらい、待って……。」

と、哀願。

哀願するより他になかったのだ。絶賛『どうしようもなくなってる』状態。5分間ぐらい待ってもらって感情を整えなきゃ、お寿司屋さんに向かって行けない。

縮こまり姿勢のまま真下を見続けていた。

そしたら、わたしの背中に、背中のような感触。

つまり、おとうさんが、わたしの反対側を向いて腰を下ろし、自らの背中をわたしの背中にくっつけてきたのである。

思わぬ触れ合い。思わぬスキンシップ。

彼氏に……アツマくんにスキンシップされる時とは別種のカラダの熱が、わたしの内部に湧き上がってきた。

「どーだ」

おとうさんは元気に陽気に、

「立ち上がれるようなエネルギー、出てきたろ? それともアレか、もっと濃厚な接触でないと、エネルギーがフルにならないってか」

ゆっくりと、ゆっくりと。いつもの5倍ぐらいカラダの動きをスローにして、おとうさんと同じ方向にカラダの向きを転換し、おとうさんの右隣に寄り添う。

恥ずかしさ混じりに、おとうさんの顔に視線を伸ばしていきながら、

「スケベなこと言わないでよっ。下品なコトバを使うなんて、おとうさんらしくないっ」

と、シュークリームのカスタードクリームみたいに甘い声で、叱ってみる。

はてな。どこらへんが下品なコトバだったかな?」

「ニブいわよ。おとーさんらしくなーい♫」

「時差ボケゆえのニブさかなぁ?」

「ジョーダンやめてよ〜、帰国してからもう、だいぶ経ってるでしょ〜〜??」