網野善彦 無縁・公界・楽

「先生、先生は、『中世に、天皇の力が弱くなり、滅びそうになった』と説明しますよね。でも、なんで天皇は滅ばなかったのですか? 形だけの存在なら、取り除かれてもよかったはずではないんですか?」

「先生、なぜ、平安時代末期と鎌倉時代にだけ、すぐれた宗教家がいっぱい出てきたんですか? ほかの時代ではなく、どうしてこの時代に」

 

 過ぎ去っていった高校教師時代--

 生徒からの2つの質問 今の僕でも 100点満点の答えは出せない

 でも僕は 生徒諸君が与えてくれたこの「問題」を ずっと考え続けてきたんだ あの時の生徒諸君 聴いてくれるだろうか 僕の些細な答弁を

 

 

 

 「エンガチョ」

僕が子どものころ 「エンガチョ」という遊びがあった

 

 『エーンガチョ、エンガチョ』

 

この時僕は『エンガチョ』になっていた みんな『エンガチョ』である僕に触れようとしない そう、誰かに『エンガチョ』をうつすまでは だから僕は『エンガチョ』を誰かにつけるまで みんなを追いかけた

 

でもエンガチョには不思議なおまじないがあった 両手の親指と人差指で鎖の輪をつくる そして誰かに

 

 『エンきーった』

 

そう言って つくった鎖を切ってもらう このときもう僕は『エンガチョ』ではなくなっていたのだ

 

1930年代の話だ

東京の小学校に通っていた

80年代が来ようとしている今 しかし最近でもこの遊びは消えていないらしい (ただし東京や東日本に限定した話だ)

 

 『エーンガチョ、エンガチョ』

 

 『エンきーった』

 

鶴見俊輔さんが 『文学』という雑誌で 「エンガチョ」について書いていた

 

 『エンガチョは汚いやつのこと』

 『汚さが魔力となって人を寄せつけないエンガチョを持っている奴のこと』

 

 『エンガがなくなっちゃったら迫力がない』

 『勉強ができない人間は自分のエンガの力によって人に対抗していかなければいけない』

 

鶴見さん。

たしかに『エンガチョ』は『魔力』です 『汚さ』の魔力であり 同時に『きれいさ』の魔力です

でも 僕には ひとつだけ鶴見さんに賛成できないことがある

それは、貴方が『エンガ』の『魔力』だけをしきりに強調していること

たしかに 『エンガチョ』の『エン』は 『穢』の『エン』かもしれない

でも聴こえてきませんか

 

 『エンきーった』

 

このおまじないの声が

このおまじないの方の『魔力』は『縁切り』の魔力です

もしかしたら 『エンガチョ』の『エン』は 『縁』の『エン』

そして僕は『縁切り』の原理のほうにより注目しているのです--。

 

 

 

参考文献 網野善彦『無縁・公界・楽』 平凡社ライブラリー 1996 「まえがき」「1 エンガチョ」