言えなかった。
葉山に。
工藤くんのこと。
せっかく、葉山に、おいしい魚料理とサラダを作ってもらったのに。
でも、どうなっても、わたしは言えずじまいだったかも、しれない。
某弱小予備校
授業がはやく終わったので、狭い自習室で勉強していた。
そしたら同じクラスのAちゃんとBくんと、
工藤卓くんが、
『このあと夕飯いっしょに食べない?』
って。
× × ×
そんでもって、わたしたち男女4人は夕飯を食べに行ったわけだ。
わたしとAちゃん、工藤くんとBくんが隣同士で、
ボックス席で向かい合っていた。
Bくん「それにしても、きょうの現代文の問題、あれはないよ」
Aちゃん「あー! それわたしも思ったー!!」
工藤くん「現代文なのに、引用文に文語体の文章を持ってくるのは、ある意味ひきょうな手だよなあ。
いくら、明治時代の文章とはいえ」
わたし「ーーそうかしら。」
わたし以外の3人『えっ!?』
わたし「い、いや、そう思ってるの、わたしだけかも、ね???」
工藤くん「そんなこともないんじゃないか、八木さん」
バリトンの声質で、
工藤くんがわたしの意見に同調した。
10代らしからぬーーといっても、もうわたしたち高校生じゃないけどーー大人びた、外見にも似つかぬような低音。
まるでわたしの心臓を射抜こうとしているんじゃないか。
そんな恥ずかしい恥ずかしい考え、そうそれは勘違いではあるけれど、一瞬だけ一瞬だけ、そういうふうに勘違いしてしまうような、言葉の威力があった。
工藤くんのバリトンが、わたしの身体をかすめたのだ。
bakhtin19880823.hatenadiary.jp
↑ 閑話休題、工藤くんとのいきさつに関してはこちらを。
× × ×
そしてわたしたち4人は店を出たのだが、都心の街は仕事終わりのサラリーマンやら学校終わりの学生やら生徒やらで非常にごった返しており、
人波にもまれていたら、
AちゃんとBくんをあっというまに見失ってしまって、
気づいたらーー、
工藤くんとわたしがいた。
「ハメられたのかな、僕たちw」
「AちゃんとBくんに!?
偶然じゃないの」
「そうかなあ。
八木さんがそう言うのなら、そうなのかなあ」
「し、しっかりしてよ、工藤くん。
工藤くんどの駅から帰るの」
「八木さん!」
『ビクッ』
「ーーごめん。
人多いから、いつもより大きい声を出した。
あのさ、現代文の問題の続きなんだよ」
「い、い、いまそういうことしゃべくってる場合なの」
「(きびすを返し、)こっちの道に入ると、このあたりにしては人通りが減るんだ」
「工藤くんが電車乗る駅を教えてよ。どうせ人が多すぎるんだから、裏道入らなくたって同じだよ、だれもわたしたちの会話なんて聴かないーー」
「八木さん。
さすがに声が良く通るね。」
「あ、あ、ああっ」
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
たとえ渋谷駅前のスクランブル交差点であっても、わたしの声はよく通るのだ。
放送部で発声・滑舌・アクセントを鍛えた自分を、少しうらんだ。
ーーあ、
放送部って、
工藤くんも、同じことか。
「きょうの現代文のことの続き?
引用されてた文語体がどうこう、のこと?」
「そう、明治時代のーーだれの文章だったっけ」
「だれなのかは、わたしも忘れた」
「きみはあの引用文がスラスラ分かるのかい」
「平安時代の古文と比べたら読みやすいでしょう」
「きみ、国語、得意なんだな。」
「そうだっけ? もう忘れた」
「おいおいw」
「現代文も古文もふつう、だと思う。
漢文がいちばん得意」
「あー!! だから、だからあの漢文の読み下(くだ)しみたいな文体が、スラスラ分かったんだね」
「そうかしら……?
もう忘れちゃった」
「(焦るように)わ、忘れた!?
八木さんきょうの授業をもう忘れちゃうのは、それはマズいよ!!
勉強って、復習、だろ!? ほらーー」
「じゃあ工藤くんに『復習問題』を出すね」
「お??」
「去年のNコン(NHKコンテスト)で、わたしが読んだ課題作品はなんだったでしょう」
「えーっと、えーっと、
『更級日記』」
「もう忘れたの!?
ひどいよ工藤くん!!
『土佐日記』だよっ!!
ーーく、
工藤くん、
京大落ちるよ!?」