【愛の◯◯】『ありがとう』が消化できなくて

 

おねーさんが3杯目のブラックコーヒーを飲んでいる。静かにカップを置く。仄(ほの)かに湯気が立ちのぼる。おねーさんの鮮やか過ぎる髪が微(かす)かに揺れる。その髪の揺らぎにキッチンの窓から漏れる夕方の光が当たる。おねーさんの全部がキラキラする。

わたしはそれを見てウットリしていたんだけど、

「あすかちゃんがバイトしてるお店、オジサンの常連客が多いみたいだけど、大変じゃない?」

と、にこやかな顔で訊かれたので、

「そんなでもないですよ」

と答える。

「話せば分かるんです。世代の違うオジサンであっても」

「お客さんと結構話すんだ」

「カフェレストランの看板娘として……ね」

おねーさんの笑顔のキュートさが増して、

「看板娘なのね。それなら、南浦和駅の近くのお店なんだし、南浦和を背負(しょ)って立つ存在にならなきゃね」

「ま、大学卒業までの看板娘ですけどね。就職したら、あのお店からも巣立つんです」

「そっかあ……」

おねーさんはコーヒーカップから指を離し、指を離した右手で軽く頬杖をつき、

「就職したら……ってあすかちゃん言ったけど、就職活動の準備はしてるの?」

「してますよー。早め早めの準備を心がけていて」

「偉いね。わたしは、まだまだ。1年『ダブる』から、あなたと一緒に卒業することになるんだけど――」

「おねーさんっ。『ダブる』とか言わないのっ。留年の自虐はNGですよっ」

「アハハ……。そうね」

この上なく可愛い苦笑でもって、

「あすかちゃん、あなたが進みたい業界のことを教えてくれないかしら。だいたい見当はついてるんだけど」

ここでわたしは、カバンから何部かのスポーツ新聞を取り出す。

そのスポーツ新聞各紙をテーブル上に広げて、

「いちばん行きたいのはスポーツ新聞社で。ここらへんの会社を受けてみたいかなー、と」

広げた各紙に視線を注ぐおねーさんは、

「なるほどね」

と言い、

「わたしとしては、横浜DeNAベイスターズに紙面を割いてくれる新聞の記者になってほしいんだけど」

またまた〜。

「申し訳無いですが、おねーさんのベイスターズ愛よりも、わたしの意思が優先です。第一志望になるのは、最もやり甲斐のありそうな新聞社です」

「ふぅん……」

と呟いたかと思うとおねーさんは、

「でも、◯◯や◯◯◯◯みたいな、特定の球団への偏向が甚(はなは)だしい新聞は、ダメよ?」

またまたまた〜。

 

× × ×

 

そんなこんなで、おねーさんのマンション部屋(べや)でおねーさんと過ごす午後はあっという間に過ぎていったのだった。

 

そろそろ兄貴がここに帰ってきてしまう。

兄貴に『ただいま』を言うのが本日の中で最高にめんどくさい。だから、兄貴がドアを開いてくるまでに自分の邸(いえ)に帰りたかった。

「おねーさん、そろそろ……」

そう言いながら腰を浮かせる。

しかし、

「もうちょっとだけ居てよ」

と、おねーさんの方から。

わたしは中途半端に腰を浮かせたまま、

「でっでも、兄貴が帰って来る前に、帰りたくって」

「アツマくんの顔を見るのがそんなにイヤなの?」

「……そうじゃないです。……でもっ」

『しょーがないったらありゃしないわね☆』みたいなキモチの表れている超美人フェイスが視界に食い込んでくる。

「じゃあ、あとほんの少しだけで良いわ。彼が帰ってくるまでに終わらせる」

「……ハイ」

チカラ無く椅子に再び座ってしまうわたし。

そこに、

「利比古はどんな様子なのかしら?」

と、いきなり、ズバッと。

ほとんど脈絡無しに、おねーさんは、おねーさんの弟の利比古くんに触れてきた。

わたしは利比古くんと一緒に邸(いえ)に住んでいるから、わたしに様子を訊くのが自然ではある。だけど、いきなり彼の名前を出されたら動揺してしまう。

「え、なーんか視線が泳いでない? どうしちゃったのあすかちゃん。利比古のレポートをするのがイヤなの?」

わたしは慌てて首を横に振り、

「違います。いきなりレポートお願いされたら、ココロの準備できないってだけ」

「イヤなんじゃないのね。ココロの準備ができたら、レポートしてくれるのね」

「はい」

「簡単なレポートで構わないから」

「はい……」

 

で、レポートした。

これで満足なんだろうか……と思いつつ、おねーさんの反応を待つ。

そしたらば、

「あすかちゃん。」

と、優雅な微笑みでありながらも、少しだけマジメな空気を漂わせて、

「わたしの弟のこと、ちゃんと観てくれて、ありがとう。」

と……!

 

× × ×

 

ちゃんと観てくれて、ありがとう。

それは、いろいろな意味の含まれたコトバ。彼女は、純粋な善意で感謝のコトバを言ってくれた。だけど、重みのある感謝のコトバだとわたしは思った。様々な感慨が含まれている感謝だと思った。

単純な『見る』じゃない。『見る』じゃなく、『観る』。4年以上も利比古くんと暮らしているし、深く関わり続けているんだから、わたしの眼は、『見る』眼ではなくて『観る』眼になる。

『向き合ってくれて』ありがとう。

『大切にしてくれて』ありがとう。

時には彼を助けてあげる。時には支えになってあげる。

そういう接し方にも、利比古くんのお姉さんは感謝してくれている。

もちろん、その感謝は、嬉しい。

でも。

『助ける』のも、『支える』のも、実際は……『一方通行』ではなくて。

 

時刻は午後6時半を過ぎている。

おねーさんの『ありがとう』を引きずったまま、玄関ドアを開け、広い広い1階フロアへと歩いていく。

おねーさんの『ありがとう』が消化できない。帰りの電車内でも、言われたコトバはぐるぐる回転し続けていた。

広くて大きくて天井の高いリビングは目前。『彼』がそこに居ないことを祈り始めてしまう。『彼』がそこに居てしまったら、わたしは確実におかしくなってしまう。

リビング手前でいったん立ち止まる。胸に手を当て、息を吸って吐く。なんの意味もない深呼吸なのは当たり前だけど……。

これ以上スローになれないほどスローに脚を動かし、リビングに入ろうとする。

高い天井。その下に、テーブルを囲む大きなソファ。

おねーさんの色合いに近い髪の後頭部が視界に食い込んできた。

お姉さん譲りの髪の色合い。ソファの上にのぞく後頭部だけで、瞬時に誰なのか分かってしまう。

胸に何かを突き刺されるような感触があった。

いったん背筋が冷たくなり、それから、反動で、体温と脈拍がぐんぐんぐんぐん上がっていった。

何もできないままに、リビングの入り口にわたしは立ち尽くしていた。