東本梢(ひがしもと こずえ)さんが、お邸(やしき)の「リビングD」でなぜかくつろいでいる。
『なぜか』というのは、彼女は3月の終わりに邸(ここ)から巣立っていったはずだから。
「利比古(としひこ)くん、私が邸(ここ)でダラダラしてるのが不可思議だ、って思ってそうな表情してるねえ」
ぼく(168センチ)とほとんど背丈の変わらない梢さん(166.5センチ)が、キレイなラインのカラダを前のめりにして、鋭いコトバを放ってくる。
「いくらでも、不可思議! って思ってくれていいんだけど。――それはそうと」
彼女は、前のめり姿勢のままに、左手の手の甲の側(がわ)を顎(あご)にくっつけて、
「提供、されたい? 西日本の放送局の情報」
出身大学の『西日本研究会』なるサークルの名誉会員たる彼女は、西日本のテレビ局やラジオ局に強い興味を示していて、同じく西日本の放送文化に強い興味を持っているぼくに、しばしば「情報提供」をしてくれるのである。
ただ、
「今は、遠慮しておきたいです」
真向かいのソファ座りの彼女が前のめり姿勢をやめる。伸びていく背すじ。真面目寄りになる顔つき。
「たぶん、梢さん、徳島県のテレビ事情の続きを、ぼくに話したかったんでしょうけど……」
徳島県唯一の民放テレビ局である四国放送にまつわる話などを用意していたんだと思う。
彼女を裏切ってしまうようで悪いのだが、
「それどころでは、無くなってきてまして」
厄介なコトが積み重なっているがゆえに、テレビやラジオのコトを考える余裕がどんどん削られている。
厄介なコトの詳細を伝える度胸はあまり無い。『それどころでは、無くなってきてまして』。そういう風に、曖昧な言い回しで取り繕う。
取り繕い切れないのかもしれない。鋭い梢さんだから、ぼくが曖昧に言うだけでも、ぼくにのしかかっているモノを具体的に把握できてしまうのかもしれない。
「――人間関係が、こんがらかってるとか?」
目線を上手に上げられないぼくに、梢さんの声が突き刺さってきた。
取り繕い切れなかった。梢さんの直感の切れ味に敵うワケも無かったというコトだろうか。
4月に入っていきなり、猪熊亜弥(いのくま あや)さんに、
『わたし、あなたのコト、諦めるわ。あなたに相応しい女の子が他にいるはずだもの。わたしなんかよりも、よっぽど相応しい女の子が』
と言われてしまった。
ぼくへの未練を断ち切る……それを直接伝えられたのは、人生で2度目だった。
「猪熊さんショック」はいまだに尾を引いている。ふとした瞬間に、猪熊さんのコトバが蘇る。
引きずるだけならば、良かった。
しかし、引きずるだけでは事(コト)は済まなかった。
これから向き合わねばならない女子がいるのだ。
そう、「これから」。
1人だけじゃない。2人いる。
2人の女子と向き合って、どうにかできなければ、全部ちゃんとするコトなんかできない。
「利比古くんが重苦しい表情になってる。とっても辛(ツラ)そうなハンサムフェイスだ」
梢さんの鋭さがまたもやぼくを射抜いてくる。
『『ハンサムフェイス』なんてコトバまで持ち出して強調する必要も無かったんじゃないですか……』
そういう風にツッコみたくなるが、ツッコみたくなるだけで、声に出せない。
「ここは、7歳年上の成熟したオンナとして、アドバイスをあげなきゃなんないトコだな」
ぼくのカラダの強張(こわば)り度合いが増す。
アドバイスってなんだろう。ぼくの心拍数を上げてくるアドバイスじゃなかったらいいんだけど……。
「遠藤周作(えんどう しゅうさく)って作家、知ってる?」
彼女の口から出てきたのは、意表を突く問い掛けだった。
「名前だけは……」
とりあえず答える。
「私は読んだコトが無い作家なんだけど――私の友だち女子がね、遠藤周作のエッセイについて話してたコトがあって」
そう言ってから彼女はひと呼吸置いて、
「『手紙を書きなさい』って、エッセイに書かれてたんだって」
手紙……?
「とにかく手紙を書きなさいと。そうすれば、人間関係だとか、諸々(もろもろ)の問題はだいたい解決できる……そんな風に、遠藤周作はエッセイの中でアドバイスしてたらしいの」
そう言ったあとの彼女は、微笑とも苦笑とも言える顔になって、
「そのエッセイがどの本に収録されてるのかは、訊けずじまいだったんだけどさ」