【愛の◯◯】牡丹の前のホフマンスタール

 

放課後。保健室。一ノ瀬先生が淹れてくれたコーヒーをじっくりと味わっている。わたしの右横には何故か伊吹先生もいる。保健室の先生じゃなくて国語の先生なのに。

『いくら一ノ瀬先生と仲良しだからって、保健室に入り浸ってるんじゃ無いでしょーね……』

口には出さないけどそう思ってしまう。思いを抱きながら実習生のわたしは恩師たる伊吹先生に厳しめの目線を送る。

出入り口ドアが動く音。

現れてきたのは中等部2年の端本春音(はしもと はるね)さん。栗色に近い色の髪が鮮やかで際立っている娘(こ)。彼女の髪の長さは中等部2年だった時のわたしの髪の長さとほぼ同じ。なおかつ158センチ前後の背丈も中等部2年に進級した時のわたしの背丈とほぼ同じ。いろんな意味で『かつてのわたしと似てるなぁ』と思っちゃう娘である。

端本さんはゆっくりと保健室内に足を踏み入れてくる。なんだか『おそるおそる』の入室に見えたのでわたしはいろいろと『察して』いく。

わたしとすぐに眼が合った。わたしの在室に瞬時に気付いてくれて嬉しい。だけど端本さんの顔は赤く染まり始めていってしまう。よりにもよってこんな場所・こんなタイミングでわたしの姿を見てしまったのだ。無理もない。

 

× × ×

 

用を済ませた端本さんが保健室を出ていった。入ってきた時より大きな音を立ててドアを締めて出ていった。

ドアの方を見ながらわたしは、

「初々しいですね」

白衣の一ノ瀬先生がすぐさま、

「まだ中2なんだもの。あんなモノよ」

わたしと一ノ瀬先生は笑顔で目配せをする。

そこに、

「端本さんだけどさー。授業中も『デリケートな存在』なんだよねえ」

と伊吹先生が割って入る。

わたしは厳しく眼を細め、

「なんですかその言い回し。国語教師なのに日本語が飛躍しちゃってるじゃないですか」

伊吹先生は、

「厳密だな、羽田さんは」

わたしは、

「伊吹先生に対しては厳密になっちゃいます。敬愛する恩師だから、ですよ」

「あれれ、『敬愛する恩師』って言い回しの方がおかしくない? 『恩師』ってコトバには『敬愛』の意味が含まれてるんだし」

国語科担当教師らしいツッコミを唐突に突き刺してきた伊吹先生をわたしは凝視する。

反発のコトバを敢えて返さないわたしに、

「羽田さーん。職員室とかで今みたくあたしをたしなめたらダメよ? TPOTPO。あたしへのお説教は、保健室オンリーで」

「……わかってますよ」

伊吹先生への凝視をほどいて一ノ瀬先生の方角へと視線を戻す。

そしたら一ノ瀬先生が、

「端本さんなんだけどね。わたし、伊吹先生以上に彼女のコトが気がかりで……」

「『ときどき授業を休んで保健室に籠もっちゃう』とかですか?」

わたしはそう訊くけど一ノ瀬先生はふるふると首を横に振って、

「違うのよ。保健室のリピーターってワケじゃないの。だけど、ときどき授業サボっちゃうっていう羽田さんの『読み』は的を射ていて」

「それはよろしくないですね。わたしなんか中等部時代に計9回しか授業サボったコト無いのに」

素直な打ち明けに対して一ノ瀬先生は、

「どーして『計9回』とか妙にリアルな数字が出てくるのよ」

と苦笑い。

「事実なので」

と返すわたしの背中に、

「羽田さん羽田さん、あたしが高等部からの『編入組』なのは憶えてるでしょ!? あたしなんかね、高等部1年が終わった時点で、『授業サボり』の回数が既に15回をオーバーしてて……」

という伊吹先生のおちゃらけた声が降り注がれるので、

「お黙(だま)りなさい」

と一切振り向いてあげないで恩師であればこその『警告』をしてしまうのである。

 

× × ×

 

伊吹先生のどうしようも無さはもうどうにもならない。

だけど端本春音さんはまだ中等部2年に上がりたてなのだから「なんとかなる」余地は十二分にある。

実習生の領分を少しだけはみ出してでも端本さんとコミュニケーションを重ねてみたいと思った。

 

夕方5時を少し過ぎたトコロだ。

部活動見学が僅かな時間で終わったので手持ち無沙汰になった。「懐かしい場所」に足を運ぶコトに決めた。

『ガーデン』の通称が全校に行き渡っていた「懐かしい場所」の間近で立ち止まる。

わたしが卒業した5年前から『ガーデン』が変化していないのを感じ取る。曇り硝子(ガラス)の『ガーデン』の内部はここからは見られない。けれども外から見た佇まいは少しも変わっていない。中身にもこれといった変化が無いのを容易に確信できる。

懐かしさに嬉しさが付け加わる。曇り硝子の内側に歩を進めていく。

牡丹が咲く前で立ちながら本を読んでいる女の子の姿が眼に飛び込んできた。

ビックリした。『ガーデン』にただ独(ひと)り居(い)て『立ちながら読書』をしていたのは端本春音さんだったからだ。端本さんの栗色めく髪と盛(さか)りの季節の牡丹とが見事なコントラストを成している。わたしは立ち止まって見入ってしまう。

端本さんがバシン! といきなり本を閉じてしまった。わたしという存在が混入してきたから慌ててしまっているんだと思う。本が閉じられたが故に書名が明らかになる。ホフマンスタールの『アンドレアス』だった。『ホーフマン』スタールではない。昭和30年代の刊行だからまだ『ホフマン』スタールなのだ。

それにしてもホフマンスタールの『アンドレアス』だなんて……。懐かし過ぎる。端本さんの現在の学年すなわち中等部2年の時に全く同じ本をわたしも読んでいたのだ。感慨に浸れないワケが無い。それ故にわたしはヒタヒタと端本さんのもとに歩み寄っていく。

いささか乱暴に本を閉じたのは咎めず、

「あなた良(い)い本を読んでるわね」

と約2メートル離れた場所から褒めコトバを繰り出してあげる。

それから、

「中等部時代のわたしに匹敵するぐらいの読書家なのを確信しちゃった」

と嘘偽り無きコトバを伝えてあげる。

しかし端本さんは苦い顔。わたしがあまりにも積極性を発揮し過ぎているから仕方が無いのかもしれない。

けれどもわたしはわたしの勢いを止められなくて、

「ホフマンを読む中学生の女の子ならザラに居ると思うけど、ホフマン『スタール』を読む中学生の女の子なんてたぶんザラには居ない」

と言(げん)を発してから距離を半分に詰めて、

「将来有望」

という漢字4文字を送り届けてあげる。

しかしながら端本さんは派手にのけぞってしまって、

「なんなんですかっ、なんなんですかっ羽田先生っ。『ガーデン』にやって来たと思ったら、わたしが読んでた本を『ダシ』にして実習生の身分とは思えない言動を……」

わたしは絢爛(けんらん)と咲いている牡丹の方へ静かに顔を傾けるだけだった。

「生徒の読んでる本や読んでる本の趣味(シュミ)に干渉して来ないでくださいっ! 羽田先生は実習生に過ぎないんだから、なおさらですっ!!」

駆け出す音が聞こえてくる。保健室での一件もあったし転んでしまわないか心配だ。

『ガーデン』から端本春音さんが消えてゆくのを耳だけで見届ける。

軽い反省混じりに牡丹の群れを眺める。

牡丹。異名は『百花(ひゃっか)の王』。端本さんもこの異名を知っているかどうか。

ちなみにわたしが一番好きな夏の花は牡丹でも芍薬(しゃくやく)でも百合の花でもなく朴(ほお)の花である。