あすかちゃんが戸部邸に居ない。大学に行っているから居ない。彼女の予定は彼女の方から伝えられていた。だから不在の理由は把握していた。
広いリビング。ソファに座るわたしの眼前(がんぜん)には誰も居ない。
ボーイフレンドの利比古くんも不在なのだ。予定を合わせられなかった。せっかく邸(ここ)を訪ねたのに利比古くんの整いに整った顔立ちが見られない。残念だから溜め息をつく。
溜め息をついた後、20秒ぐらい経過してから、また溜め息をついてしまった。
わたしは実は、あすかちゃんからあすかちゃんの予定を知らされた時、少し安堵してしまっていたのだ。2度目の溜め息は、あすかちゃんの不在に安堵する自分の情けなさへの溜め息だったのだ。
あすかちゃんが居ないからホッとしてしまっている。その理由を説明すれば長くなる。いちいち説明する気が起きない。だらだらと説明する代わりにカタカナ5文字で表現するのならば、ずばり『ギクシャク』である。わたくし川又ほのかとあすかちゃんは現在微妙にすれ違っている。ボーイフレンドたる利比古くんとの関係以上にあすかちゃんとの関係は良好だった。誰がどの角度から見ても仲良しの女の子同士だった。揺るがない仲良しのはずだった。それなのに……。
あすかちゃんの22歳のバースデーだった6月9日に邸(ここ)に来た。その時に味わってしまった「苦み」がカラダやココロを蝕(むしば)んでくるコトが、しばしばある。
今この瞬間も、「苦み」が自分の中に兆してきているのを認めざるを得なくなる。リビングに誰も居なくて手持ち無沙汰で、カラダやココロに隙(スキ)ができてしまっている。「苦み」はその隙を容赦無くついてくるのだ。
× × ×
腕時計を見たら14時55分だった。
誰かの足音が前方から聞こえてきた。わたしのボーイフレンドやわたしの大親友女子の足音とは全く違う響きだった。
あまり現れてほしくない男性(ヒト)の姿が視界前方に現れた。奥の方からわたしに向かって歩み寄ってくる。上品ではない足音を立てて歩み寄ってくる。180センチ近い身長。リポビタンDのCMオーディションで最終選考まで残るかもしれないぐらいの鍛えられた体格。
肉体的な面でしか褒めてあげられない戸部アツマさんは、わたしの手前の長テーブルに深皿をドカッ、と置いたかと思うと、ポテトチップスの袋の中身をドバババ、と放流した。
「なんですかこれは」
イラつきながら問いをぶつけた。
あすかちゃんの『愚兄』であるアツマさんは、ヘラヘラと、
「この後、きみのために美味しいコーヒーを持ってきてあげるんだが、このポテトチップスのフレーバーは、今日のコーヒーの酸味に絶妙にマッチするのさ」
わたしは急激に不機嫌になった。
淹れるコーヒーへの自信過剰。『ポテトチップスのフレーバー』だとかいう浅ましい表現。『コーヒーの酸味に絶妙にマッチ』だとかいうコーヒー素人さえも言わなさそうな気持ち悪いフレーズ。
静かなる怒りを燃やしてわたしは、
「断言します。実家が喫茶店の人間として断言します。コーヒーのコトもコーヒーに合うお菓子のコトも、アツマさんは何にも分かってないっ」
静かに燃え上がっているわたしの怒りに鈍感過ぎるのか、
「おっとそれはどーかな」
と、軽薄過ぎるぐらい軽薄に言ってくるアツマさん。
許せなくて、
「コーヒーをテーブルに置いたら速やかに消えてください!! コーヒーがどれだけ美味しくなくても何にも言いませんからっ!!」
とわたしはキレるけど、
「エーッ、川又さん、寂しいんじゃないの?? あすかも利比古も夜まで帰って来ないぜ?? 話し相手、欲しいんじゃないんかね」
わたしは一気に沸騰して、
「アツマさんが話し相手だとか一生イヤですから!! どーしてここまで気持ち悪くなれるんですか、アツマさんは!? クエスチョンマークが語尾に2つも付くような口調、わたしは世界でいちばんキライなんですよっ!!」
呼吸が荒くなる。上半身が沸点の2倍になる。
そんなわたしに何の配慮もするコト無く、にっくきアツマさんはダイニング・キッチンがある方角を見やり、
「まあまあとりあえず、話はコーヒーを持ってきてからとゆーコトで」
× × ×
水曜日の昼間になぜ職場のカフェ『リュクサンブール』ではなく実家のお邸(やしき)に居るのかという疑問が一生拭えそうにない。
冷静に考えても冷静に考えられなくても戸部アツマさんは本職が喫茶店員なのだから紛うこと無きわたしの両親の商売敵である。アツマさんに対するわたしの敵意はそんなコトからも産まれてくる。
両親の商売敵かつわたしの天敵たるアツマさんが広いリビングに再び現れてくる。水曜日の昼間にお店を休めるのが不可解過ぎるからわたしは冷たくて切れ味鋭い視線をアツマさんに送り届ける。
「ほれ」
バカみたいな声音で言ったかと思うと、わたしの手前にコーヒーカップを寄せてきた。
長テーブルの上のコーヒーカップの中身の黒い液体はどう考えても美味とは思えない。これは、コーヒーの淹れ方が『分かった気になっている』ヒトが出すコーヒーだ。あんまり舐めないでもらいたいんですけど。わたしの舌が実家の喫茶店『しゅとらうす』のコーヒーでどれだけ鍛えられたと思ってんの!?
……それでも僅かな良心はあったから、激(げき)マズかもしれない黒い液体を音を立てずに啜ってあげる。
幸い激マズでは無かったけど、
「早◯田大学に『コーヒー学部』があったら、10回受けて10回落ちるレベル」
という比喩でdisるのを抑え切れなくて。
アツマさんが、ニヤけた。
『自分が通ってる大学に『コーヒー学部』を無理やり設置しようとしなくても良(い)いんでねーの??』
今にも、そういう厚顔無恥な発言をしてきそう。語尾にクエスチョンマークを2つくっつけて。
「アツマさん。消えてください」
告げるわたし。明瞭な発声で告げるわたし。
しかし、ハッキリクッキリ『消えてください』と言ったにもかかわらず、アツマさんは言うことを聞かない。
どういうワケか知らないが、わたしの真正面のソファに接近してきていて、腰を下ろす寸前の勢い……!!
「アツマさんッッ」
腰を下ろしてほしくないわたしは声を振り絞り、
「わたしに、パンツ……じゃなくって、パンチを食らいたいんですかっ!?」
史上最悪クラスの言い間違いをしてしまったわたしは理性などもうどうでも良くなって、
「食らいたいんですね、食らいたいんですよね!? 文句言えないですよ、カラダのどの部分にわたしの必殺パンチを食らっても!?!?」