伊吹先生との感動の再会の後(あと)、始業までに時間があったので、保健室にお邪魔するコトにした。
ドアを引いたら杉内琴乃(すぎうち ことの)先生が立っていた。
身長164センチの完璧な体型。クールで強くてカッコいいので評判だった保健室の先生は、黒髪をポニーテールに結(ゆ)わえている。わたしの在校時もよくポニーテールだった。懐かしさを感じる。
現在の姓は『杉内』ではあるけど、旧姓の『一ノ瀬(いちのせ)』の方が馴染み深い。ドイツ語の杉内先生と職場恋愛の末に結婚したのは、わたしが卒業してからだったんだし。
でも、
「おはようございます。お久しぶりです、『杉内』先生」
と、挨拶の後でわたしは現在の姓を呼ぶ。
実習生として来ているんだから、襟を正さなきゃいけないと思ったのだ。
だけど、わたし目がけて歩み寄ってくるクールビューティーな彼女は、
「『一ノ瀬』でいいのよ」
と言ったかと思うと、
「おはよう羽田さん。久しぶりねえ、ホントに。『磨(みが)き』がかかってるじゃないの、『磨き』が」
わたしは眼前(がんぜん)の一ノ瀬先生に、
「『磨き』がかかってるって、いったいどこにですか?」
と訊くけど、
「それぐらい自分で補えるでしょ、あなた賢かったんだから」
と言われたかと思えば――カラダを一気に寄せられて、気が付いたら抱き締められていた。
伊吹先生には自分からハグしたけど、一ノ瀬先生に自分からハグしていく前に、一ノ瀬先生の方からハグされてしまった。
少し意外だった。ここまで待ち遠しかっただなんて。
なんとも言えない感覚にも包まれたけど、やがてわたしは、思っていた以上に一ノ瀬先生に愛されていたのを自覚し始めた。
× × ×
初日は恙無(つつがな)く終わった。
1時間目は中等部2年の教室で自己紹介をして、2時間目は高等部2年の教室で自己紹介をした。『教育実習で中等部と高等部を行ったり来たりするのはおかしくないか?』みたいな疑問は受け付けないので悪(あ)しからず。
実習期間中は皆口(みなぐち)先生がわたしの指導者になる。皆口先生は伊吹先生より少し年上で伊吹先生の「お姉さん」的な存在。生徒として授業を受けていた時からわたしがリスペクトしていた先生の1人だった。もちろん、担当教科はわたしと同じ社会科だ。授業時間中は基本、わたしは彼女に随行するコトになる。
× × ×
翌日も恙無く終わった。
初日も2日目も肩慣らしのようなモノで、教室のいちばん後ろに座って生徒と同じ目線で皆口先生の授業を聴くのがメインだった。参観日の保護者のようなポジションで皆口先生の教えぶりを見るに過ぎなかったんだけど、3日目の明日からはいよいよ、わたしが教壇に立って、白板(はくばん)を背にして生徒たちと向かい合うコトになる。
プレッシャーはあまり無かった。誰かに何かを教えるのは昔から得意だったし、『いざ教壇に立つとテンパってしまうかも』みたいな不安も感じていなかった。大学のサークルメンバー相手に模擬授業をして好評だったのも自信を付け加えた。
スピーカーからチャイムが鳴って本日最後の授業が終わり、掃除時間に移行する。この女子校は生徒を信頼しているので掃除時間は短い。事実、中等部2年の教室の子も手や脚をとってもテキパキと動かしている。彼女たちに負けてはいられないわたしもテキパキと動いて、クラスに溶け込みながら室内をピカピカにしていく。
午後4時30分。わたしは保健室のドア前に立っていた。
体力はありあまっているのだから、ベッドに寝転んでカラダを休めたいがために保健室を訪れたワケでは当然無い。
朝、保健室の前を通りかかった時、『良かったら放課後、ここに来てくれないかな?』と一ノ瀬先生が仰(おっしゃ)ったのである。
『わたしと一緒に放課後のコーヒーでも飲みたいんだろうか……』と苦笑いしながら胸の中で呟き、ドアを引くために右手を伸ばす。
2日連続でポニーテールの一ノ瀬先生が、
「いらっしゃい」
とわたしを歓迎する。
白衣の彼女の両手にはマグカップ。ホントにわたしと一緒にコーヒーが飲みたかったんだ。
「運動部の引っ張りだこにはなってなかったみたいね」
わたしがスポーツ万能なのを熟知している一ノ瀬先生は、そんなコトを言いながら、大きいデスクにマグカップを2つ置く。
「あの娘(こ)たちは『現役時代』のわたしの姿を知ってるワケでは無いんですから」
答えつつ、マグカップの手前の椅子に素早く着座する。1人の女子生徒にテニスコートへの『ラブコール』を送られてしまったのは秘匿(ひとく)しておく。
「わかんないわよ」
わたしから見て左斜め前の椅子に腰掛けた一ノ瀬先生は、
「すぐに拡散(バズ)っちゃう御時世なんだから」
またまたぁ。
苦笑のわたしは、
「4年2ヶ月ぶりの母校なんですよ? 『痕跡』なんて、薄れて消えかかってますよ」
と謙遜の意を籠(こ)めたコトバを先生に届けるけど、
「ほんとーかなー」
と先生がニヤリとしたお顔で言ってくるから、「たじろぎ」がわたしの中に微(かす)かに産まれて、マグカップの取っ手に指をかけたまま静止してしまう。
ホットなブラックコーヒーを飲み切るのに20分もかかってしまった。
「伊吹先生が、もうちょっとしたらドアを引いてくると思うわ。面倒くさいから伊吹先生にはなんにも言ってないんだけど、長年の勘(カン)がそう思わせるのよ」
左耳から右耳へと一ノ瀬先生のお言葉を聞き流し、
「……そうですか」
と受け答えになっていない受け答えをしてしまう。
10秒から15秒の間の静寂が産まれてしまった後で、
「もしかして、くたびれてる?」
という白衣の彼女のご指摘が、耳に入ってくる。
わたしは軽く首を横に振り、
「いいえ、くたびれてないです。ご存知の通り、オバケみたいな体力が備わってるんですから」
クールビューティーを貫き通す白衣の彼女は、
「そういう喩(たと)えは羽田さんに似つかわしく無いと思うけどなー」
と愉(たの)しげに言ったかと思えば、
「――たしかにあなたは、自他ともに認めるフィジカルの強さを持ってるんだけども」
と、真面目な方向に声のトーンを傾斜させて、
「なんだかんだで、長距離走みたいなモノだから、教育実習って。もしかすると、『ハーフマラソン』並みの距離の長さで喩えた方が良いのかもしれない。月並みなコトバだけど、『経験者は語る』ってやつ」
フォーマルなスカートに右手を置くわたしは、
「その『ハーフマラソン』に、『給水』はあるんですか?」
一ノ瀬先生は、即座に、
「ないよ。」
彼女の『ないよ。』という答えによって、背中が丸くなり、フォーマルなスカートに右手で皺(シワ)を作ってしまうわたしが居た。
そんなわたしに、先生は椅子ごとカラダを寄せてきて、
「脅(おど)すつもりは無いの。でも、怖くさせちゃったなら、ごめんなさい」
と柔らかい声を届けてきて、それから、
「あのね。『約束』を結びたかったから、今朝、わたしは羽田さんをここに誘ったの」
スカートに作った皺を弱めながら、わたしは、
「やくそく?」
と幼く尋ねる。
すると、わたしの尊敬する一ノ瀬先生は、
「もし、つらくなったのなら、いつでもここのドアを引いていいから。フィジカル的につらくなってもメンタル的につらくなっても、どっちでも。たとえ授業の途中で抜け出したって、皆口先生も、他の先生方も、きっとなんにも言わないよ」
と仰(おっしゃ)り、わたしの左肩をぽむ、と叩いてくださった。
「……ですけど」
わたしは、嬉しさを抱(いだ)きながらも、視線を下向きにさせてしまって、
「わたしに関する『事情』は、みんな理解してくださっているにしても……やっぱり、特別扱いは、違うって思って」
と、弱さを吐き出してしまうのを抑えられなくなる。
でも、
「ほんとーにもう。あなたらしくないんだからぁ」
と、先生は朗(ほが)らかにたしなめて、
「余計なコトを気にしなくなる『おまじない』、かけてあげた方がいいのかなぁ?」
と宣(のたま)いながら、わたしの左肩をスリスリとしてくれる。