髪を右手でサラサラと撫でてみる。寝グセが無いのを確認して安堵する。
左手は添えるだけ。左サイドの髪はとりわけ入念に手入れしたから添えるだけで大丈夫。
髪のどこにも寝グセが発生していないのを確信してから再び歩き始める。
超・ロングだった髪をかなり切った甲斐があった。寝グセが生まれにくくするためだけに切ったワケじゃないんだけどね。
階段をのぼり終えて2階廊下を歩く。陽(ひ)の光が左側の窓からキラキラとこぼれてくる。『風光る』という季語が本当に相応しい午後だ。
× × ×
選択授業ゆえの少人数クラスである。男女合わせて11名。男女比は5:6。
教壇から見回してみると男子の学ランが眼につく。女子校出身者であるがゆえに男子高校生の学ラン姿は本当に新鮮だ。女子は冬用の黒いセーラー服。高等女学校が前身の由緒正しき地方公立高校の如きセーラー服でこれまた新鮮である。
教卓の中央に教科書その他を積み上げる。それから、教卓の左右に両手を置く。
「みなさんはじめまして! この授業を担当する羽田愛(はねだ あい)です! よろしくね」
わたしから見て右側の席でふざけ合っていた男の子たちが、自己紹介をした途端に、こちらを向いてきてくれた。
わたしから見て左側の席に陣取る女の子たちが、わたしに向けて熱い視線を伸ばす男の子たちに冷たい視線を送っている。
新学期早々、微笑ましいじゃないの……。
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私立文系志望の子は、2年の時は1つしか無かった世界史の授業が2つになる。
自分の組(クラス)で国立文系志望の子と一緒に受ける世界史の授業は、蓑田(みのだ)先生という男性の先生が2年時に引き続き受け持つ。こっちの方の世界史を便宜的に『蓑田世界史』としておく。
わたしが受け持つ選択授業の世界史は『蓑田世界史』の補完という形になる。早慶のような私立上位校を第1志望にしている子も結構いる。そういった子たちにとっては、わたしの授業によって教科書に載っていないような事項もインプットするのが必要不可欠になる。早慶の世界史、近年特に難化(なんか)してるみたいだもんね。
『蓑田世界史』に対して『私文(しぶん)世界史』としておくコトにする。私立文系志望者向けの世界史授業は昔からあったみたい。『世界史授業がそんな風に分かれるのって、学◯指導◯領に則ってるの!?』みたいなツッコミの声がどこからか聞こえてきそうですが大目に見てください!!
この学校は進度が早いので、本日の授業はナポレオン戦争の補完といった位置づけである。
書き込み形式のプリントは配らない。個人的に好みじゃないし、生徒たちがプリントの管理に手間取るのも良くないから。
わたしが配ったプリントはA4の1枚、トルストイの『戦争と平和』と吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の引用だけを載せておいた。『戦争と平和』は言うまでもなくナポレオン戦争が題材だし、『君たちはどう生きるか』にもナポレオンに関する記述が出てくる。
白板(はくばん)の板書をノートにとってもらう形式で授業は進める。歴史教科に定評のある某・出版社の世界史用語集に収録されている用語が出てきた時は、何ページに記載されているのかをその都度口頭でも伝えてノートに書き留めてもらう。
わたしが一方的に喋っているだけではわたしも生徒も面白くないので、こちらから出す質問に答えてもらったり、逆にこちらから質問を募ったりしていくコトにする。少人数クラスであるがゆえの双方向授業である。
× × ×
「高校3年生ってホントに可愛いのよ」
夕食後のホットコーヒーをダイニングテーブルで味わいながら、真向かいのアツマくんに向けて言い放つ。
「どこらへんが?」
アツマくんが訊いてきたので、わたしが『可愛い』と思った点を3つピックアップしてみる。
「……ふうむ。アレだな、おまえ、『可愛い』と思ってるだけでなく『可愛げがある』と思ってもいそうだな」
可愛くないし可愛げもないアツマくんから不用意な発言が飛んできたので、チカラを籠めて彼の顔面を睨みつけていく。
「わたしは聖職者なのよ。講師とはいえ、聖職者なの。子どもたちを導く役目のある人間が不真面目なコトを思うのは許されないの」
「おまえが真面目になり切れるとは思えないんだが」
ヘラヘラと言う彼氏がいたから、両手で握り拳を作って卓上をゴンッ! と叩く。
「おこった~~」
彼氏の態度に我慢ならぬわたしは彼氏の着ているシャツに眼をつけて、
「あなたのシャツ、だらしなさ過ぎじゃないの!? だから、態度も呆れるほどだらしなくなるんじゃないの!?」
「エーーッ」
間の抜けまくった声を返してきたかと思えば、
「おれのシャツ、そんなにダメなんか」
「ダメなのよ。ダメダメよ。自覚が少しもないのね」
「ダメな理由、説明してくださらないか」
愚かなる彼氏に向けて、両方の拳で卓上をぐぐぐぐぐっと押さえつけながら、
「シワになってる部分が目立つのよっ。白地だから、特に目立つのっ」
シャツの左肩付近のシワが出来ている部分を彼氏は右手指で雑につまみ上げて、
「なるほどぉー。おまえ、よく見てるんだなぁー」
と言ったあとで、
「着替えるべきだと思うかー?」
と訊いてくる。
「お好きにどーぞ」
わたしはそう言ってから、
「もし、着替えてくれたなら、『ごほうび』をあげるけどっ!」
と付け加える。
「『ごほうび』??」
今日世界史を教えた高校3年生よりもコドモっぽい笑い顔で見つめてくるアツマくんに、
「あなたなら思い浮かべられるでしょ……。『ごほうび』の中身が、ある程度は」
と言いつつ、右サイドに視線を逸らし、コーヒーカップを口まで持って行く。
体温の少し上がったカラダがホットコーヒーでさらに温まるのが、ちょっとだけ不都合ではある。