ちくま学芸文庫を読んでいる。宮田登(みやた のぼる)の『霊魂の民俗学』を読んでいる。
だが、思うように読み進められない。講演録だから内容はさほど難しくないはずなのに、頭に上手く入ってこない。しょっちゅう立ち止まってしまう。一文一文を理解するのに酷く時間がかかり、読書のリズムが崩れる。
読書の不調の悪影響は学業にも及んでいる。得意な方であったはずの現代文のテストが難しくなった。定期試験でも模擬試験でも、問題を解く際に「つまづき」を覚えるようになった。読書など一切しない同じクラスのヤツの方が試験で高得点を取っているのを目の当たりにしたコトがあった。そういう現実を直視してしまうと、胃袋がキリキリ痛んでくる。
おれたちの文芸部から離脱したヤツらが立ち上げた『読書力養成クラブ』の存在を過剰に意識してしまう。読書力が退化しているような感覚を覚えるから、読書力を養成しているヤツらの活動に気を引かれてしまうのだ。けれども、『あんなヤツらに気を引かれたら負けだ』と思って、懸命に踏みとどまろうとしている。
踏みとどまろうとはしているのだが、読書が思うようにいかない現状を受け入れないワケにはいかないから、ツラさは持続する。
ツラ過ぎてちくま学芸文庫の宮田登を投げ出す。宮田登を乱暴にバッグにしまい込み、周りにおれ以外誰も居ない校舎裏の一角を離れる。校舎の入り口へと歩いていく。目的も無く校舎に入っていこうとする。
廊下から作業の音が聞こえてくる。学祭(がくさい)に向けての作業の音だ。このフロアは例年、クラブ活動の出し物や展示に使用されていたはずだ。今年もやはりそうらしい。廊下を歩いていくと、クラブ名の貼り紙が教室の入り口横に貼られているのを眼にした。
その貼り紙から眼を離し、奥から2番目の教室に近付いていこうとした。
おれの脚が止まった。
肩までの黒髪ストレートの女子の背中が眼に映り込んだ瞬間、たじろいで歩みが止まってしまった。
とても見覚えのある女子だった。
そして、できる限りコミュニケーションをとりたくない後輩女子だった。
× × ×
「マスダ先輩はどーゆー目的でこの場所に来たんですか?」
タカムラかなえが訊いてくる。不機嫌な眼つき、に見える。
「……おまえの方は?」
タカムラの表情から少し眼を逸らして言うのだが、
「なんでわたしの質問に答えてくれないんですかっ」
と詰(なじ)られ、
「不甲斐なさ過ぎるんじゃーありませんかっ? 2学期になってから、先輩、ずーっとそんな感じ」
とさらに詰られてしまう。
背中の汗を実感していたら、
「見りゃわかるでしょっ。わたしの方は、取材ですっ、取材」
確かに、タカムラかなえはメモ帳とペンを持っている。
『KHK(桐原放送協会)』なる放送系のクラブでタカムラは活動しているのだ。
ただ、
「取材なのに、撮影機材は持ってないんだな」
おれが発した疑問に対し、
「撮影は後日です。またこの教室に来るんです。ここで学祭の展示をやる『風景写真を愛する会』には、みっちりと取材していきたいんで」
とタカムラは答える。
トゲトゲしくなってきているタカムラの声。
耳に響くその声のせいで、居心地の悪さが芽生えてきてしまう。
「教室に入らせてもらいますよ。マスダ先輩に構ってるヒマ無いんで」
そう言ってタカムラは『風景写真を愛する会』が作業している教室の扉に歩み寄る。
しかし、入り口まであと一歩というトコロで突然立ち止まり、
「マスダ先輩にも『お仕事』があるんじゃーないんですか? 自分のクラスの出し物準備だとか、文芸部の展示に向けた準備だとか。文芸部、毎年、学祭で部誌を販売してましたよね。手伝わなくてもいいんですか?」
「おれは、3年で、文芸部、実質引退だから」
ボソボソと答えるのだが、
「『実質引退』とか、そーゆー問題なんですかね」
とキツく言われ、
「クラスの準備にも関わらない、部活の準備にも関わらない。まるで、『学校内ニート』みたい、今の先輩」
とさらにキツく言われてしまう。
『学校内ニート』という響きが太い針のようにおれを刺してくる。
刺されて、強く痛む。
痛むと同時に、感情が、ネガティブに熱くなる。
前に一歩踏み出して、
「タカムラ!!」
と強く言い、
「『学校内ニート』は、取り消せ!!」
と要求の声を撒き散らす。
タカムラは、平然として、おれを一瞥(いちべつ)する。
それから、眼を背け、何も返答するコト無く、『風景写真を愛する会』が作業している教室へと脚を踏み入れていく。
× × ×
その場に立ち尽くし続けるしか無かった。
立ち去りたくはなかった。『タカムラが『学校内ニート』発言を取り消すまでは、この場を離れたくない』というキモチが強かった。
対抗心のようなモノが、胸の中で、焦げるように蠢(うごめ)いている。
タカムラが取材を終えて教室から出てくるまで、対抗心のようなこの感情は、チリチリとジリジリと音を発し続けるだろう。
× × ×
とうとう、タカムラが教室の外に顔を出してくる。
おれは、床を叩くように足を踏み出して、敵対している後輩女子の顔面を睨みつけようとする。
しかし、後輩女子と眼がカチ合った途端に、『打ち勝ちたい』というキモチが萎え始めてしまう。
タカムラかなえと両眼がカチ合った瞬間、自分では制御できないような感情が、すごい速さで渦巻き始め、喉元(のどもと)の辺りまで上昇してきた。
それがどのような種類の感情だったのか、説明したくないし、そもそも、説明するコトバが上手く浮かび上がってこない。
ただ1つ言えるのは、季節外れの熱のようなモノが、薄くはあるが確実に、おれの顔面を覆ってきたコトだ。
× × ×
タカムラかなえは廊下から消えた。
都合が悪過ぎる微熱はまだ残っている。
悔しいし、恥ずかしい。
強く立ち向かって『学校内ニート』発言を撤回させるつもりでいた。それなのに、タカムラかなえと再び顔と眼を合わせた瞬間に、強いキモチが萎え、しぼみ、消えて無くなり、その次に、今のおれの弱さを象徴しているようなキモチがせり上がってきた。
せり上がって浸透してきたキモチをなんとかして振りほどきたかった。
しかし、振りほどくチカラは、おれのカラダの底からは湧き上がってこなかった。
タカムラかなえに、負けた。
負け続けているような錯覚もある。あっちの方が学年は下なのに。あっちの方がガキなはずなのに。
そして、敗北感に加え、都合が悪過ぎるカラダの熱さまでも……。
この熱は、決して認めたくない類(たぐ)いの熱だ。
でも、おれはおれをおれ自身で冷やすコトが、とても困難になってきていて。